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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第7部

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第75話:命が失われる時と、現場の対応力


 探索者協会のロビーを抜け、準備広場のいつものベンチに腰を下ろした。


 昨日、深層で目にした光景が、今も頭から離れない。


 投げ入れた岩の欠片が微塵に粉砕され、砂のように崩れ落ちていったあの空間の歪み。


 私がこれまで、ダンジョンで生き残るために構築してきた事前調査と段取りという武器が、あそこでは全く機能しないだろう。


 深層には行った。


 だが、一歩、踏み入れただけだ。


 まだ、何も目的を果たせていない。


 中層での継続的な業務を行うためには、深層を知っておく必要がある。


 深層において必要なのは、未知の事象に直面したその瞬間に、視覚、聴覚、嗅覚から得た情報だけを頼りに即座に判断を下し、動く力だ。


 要するに、現場での純粋な対応力、アドリブ力と言ってもいい。


 それが今の私には決定的に不足している。


 幸か不幸か、現在の中層は不規則な変容の只中にある。


 問題なかったルートが通れなくなり、生態系が乱れ、事前のデータが通用しない領域が確実に広がっている。


 この環境の乱れを、未知への対応力を養うための現場として利用しよう。


 それが今の私にできる、深層へ至るための準備だと考えるから。


 業務前の最終確認はすべて問題なく、私はダンジョンに入った。




 中層の縦穴状の地形が連続する区画、暗所エリアが今日の業務エリアだ。


 防塵ゴーグルとマスクを装着し、ライトの光量を最低限に絞って通路を進む。


 光量を絞る理由は、モンスターを誘引、あるいは狂乱させるリスクを回避するためである。


 そのためここでは、視覚情報ではなく、わずかな気流の変化や岩肌の反響音が頼りになる。


 足元の岩盤の起伏を靴底で確かめながら歩いていた時、僅かに違和感を覚えた。


「……広い」


 両側の岩壁までの距離が、以前、手帳に記録した時よりも離れている感覚があった。


 どうやら、別エリアで観測した地形の拡張が、ここでも発生しているらしい。


 自分の記憶と目の前の現実が乖離しているという事実は、これまで着実に築き上げてきた足場が揺らぐようなものだ。


 だが、深層ではそういったことが当たり前に発生する。


 この程度で必要以上に動揺している場合ではない。


 止まってはいけないのだ。


 思考を回し、足を動かし続けろ。


 その先にしか、私が生き残る道はないのだから。




 しばらく進んだ先で、前方の岩陰から微弱な光が漏れているのに気がついた。


 発光苔の光ではない。


 人工的な光源、それも限界まで光量を絞ったランタンの光だ。


 他の探索者だろう。


 私は足音を殺し、壁に身を寄せて光の方向を窺った。


 岩壁に張り付くようにして、ノートにペンを走らせている人影があった。


 上近少年だ。


 彼は岩盤の微細な亀裂や、そこに付着する植生の変化を丹念に書き留めているようだった。


 私が岩陰から姿を現すと、彼が私の気配に気づき、小さく肩を揺らし、振り返った。


「あ、静河さん」


 潜めたその声に、私は小さく会釈を返す。


「地形の変容を記録しているのですか」


「はい。この数日で、壁の亀裂の入り方が以前のデータと明らかに違ってきていて」


 彼の使い込まれたノートには、緻密なスケッチと数字が並んでいる。


 彼もまた、ダンジョンの変化に適応しようと、自らの足で立ち、現場の情報を拾い集めているのだ。




 私と上近少年は、一定の距離を保ちながら同じルートを奥へと進むことになった。


 会話はない。


 互いの安全マージンを侵さないよう、足音と呼吸を暗所エリアの静寂に溶け込ませて歩く。


 前方の通路が緩やかに曲がる手前で、微かな振動が岩盤を伝わってきた。


 硬い甲殻が岩を擦る、このエリアを生息域とする昆虫系モンスターの音だ。


 私たちは同時に足を止め、岩陰に身を隠した。


 角の向こうから、巨大な甲虫型のモンスターが姿を現した。


 視覚が退化し、触角による振動感知に特化した対象だ。


 これまでのデータに基づけば、動きは直線的で、側面からの物理攻撃に弱い。


 上近少年が、ナイフに手をかけるのが見えた。


 彼はすでにA品の魔石を納品するだけの実力があり、問題なく対象を処理することができるだろう。


 彼が岩陰から一歩、踏み出そうと重心を移す。


 その時、微かな異臭を感じた。


 昆虫系特有の匂いではない。


 金属が焼け焦げたような、鋭く乾いた、嫌な臭気だ。


 さらに、対象の足運びがこれまでの記録と違っていた。


 六本の脚が岩を掴むリズムが、不自然なほど重く、遅い。


「待ってください」


 私は上近少年の肩を強く掴んで引き戻した。


「えっ……」


 驚きに目を見開く彼を制し、私は岩陰から対象の挙動を凝視した。


 掌にじわりと嫌な汗が滲む。


 対象が通路の壁面にゆっくりと接近していく。


 その口元、巨大な顎の隙間から、赤黒い液体が滴り落ちた。


 液体が岩盤に触れた瞬間、激しい白煙が上がり、硬質な岩が音もなく溶け落ちていく。


 それを見た瞬間、肌が粟立った。


 上近少年も同じ感覚に襲われたようで、顔から急速に血の気が引いていた。


「……もし、僕が」


「ええ。セオリー通り、側面に回り込んで、処理しようと接近していれば」


「あの液体を至近距離で浴びていました」


 その時、彼は、防具ごと肉体を溶かされて、間違いなく命を落としていただろう。


 目の前で命が奪われなくてよかった。


 この時、私は素直にそう思えた。


「……静河さん。ありがとうございました」


 震える声で呟く彼に、私は視線から対象を外さないまま答えた。


「見た目は同じでも、中身が変容しています」


 事前のデータが信用できず、使用することもできない。


 私たちは息を殺し、岩壁に背を預けたまま、その変容個体が通り過ぎるのをじっと待った。


 対象が溶解液を滴らせながら、奥の暗がりへと消えていく。


 静寂が戻ったことを確認し、私は上近少年の肩から手を離した。


「……これからも、きっとああいうモンスターが増えていくんですよね」


「……おそらくは」


「……倒せるんでしょうか。これまでのやり方が通用しないのに」




 それからしばらく進んだところで、別のエリアに行くという上近少年とは別れた。


 私は変容個体が進んだ方とは別のルートを使用し、予定していたノルマの魔石を回収した。


 地上へ帰還した私は、魔石を換金し、協会を後にする。


 外はまだ日が高かった。


「……梅雨が来て、それが終われば夏」


『私』が『静河くん』になって、二年目の夏。


 スーパーでは彩りで食材を決め、簡単で、しかも間違いなく美味い、肉野菜炒めを作る。


 食べながら考えていたのは、今日のダンジョンでの出来事だった。


 変容個体。


 未知に直面した時、判断が遅れていたら、間違いなく上近少年の命は失われていた。


 今日の現場は、その事実を改めて突きつけてきた。


 上近少年は言った。


 倒せるのかと。これまでのやり方が通用しないのにと。


 確かにそうだ。


 深層は、深層自体が変容し、探索者の命を常に危険に晒す。


 その中でモンスターに遭遇した時、どうすればいいのか。


 様々なパターンを想像するが、対処できるパターンを導き出すことができなかった。


 どうすることもできない。


 それが現実だ。


 なら、どうする?


 どうすればいい?


「……ああ、そうか」


 私では、おそらく、深層のモンスターを倒すことはできない。


 なら、倒さなければいい。


 私は深層を業務エリアにすることを考えているわけではない。


 これからも中層で業務を継続していくために、必要なことを知るために深層に行くのだ。


「……これまでと変わらない」


 ダンジョンに潜り、生き残ること。


 深層でも同じだ。


 生き残ること。


 生きて返ってくること。


 あの時、石が粉砕された。


 今日、溶解液を吐くモンスターが現れた。


 理不尽で予測不可能な脅威に直面した時、私の選択肢は戦うのではない。


 いかにしてその脅威を正確に観測し、確実な退路を確保し、情報を持ち帰るか。


 それが私のやるべきことだ。


最後まで読んでいただきありがとうございました。

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