第63話:発泡ウレタンの決着と、家族という存在
本日の目的地は、中層の第3区画、主要ルートから外れた袋小路に位置する岩場エリアだ。
ここ数日、予期せぬ環境の変容によるルート変更や、早期の撤退が重なっていた。
手元の資金に余裕がないわけではない。
だが、生活の基盤を揺るがせないためには、不確定要素の少ない手堅い成果が必要だった。
だからこそ、石英と花崗岩が入り混じり、これまでに何度も歩いて地形を把握しているこの場所を選んだ。
五感を働かせながらルートを進む中、周囲の岩壁に視線を向けた。
表面が不自然になめらかに削り取られ、記憶にある形状と異なっている箇所がいくつもあった。
以前、ここで、探索者による大型魔石駆動バッテリーの不法投棄があり、漏出した冷却用溶媒によって通路が強酸の泥沼と化したことがあった。
その後、協会が複数の探索者、あるいはパーティーに依頼し、大掛かりな環境浄化作業が行われた結果、酸に侵された岩盤はすべて取り除かれたと聞いている。
実際、強酸の刺激臭も、足元のぬかるみもない。
協会が安全を宣言した通り、問題はないようだ。
この岩場エリアに出現するのは、硬い外殻に覆われた亀型など、土属性の小型モンスターが主だった。
彼らの動きは緩慢だ。
関節の隙間など、構造的な弱点を突いて無駄なく片付ける手順は、すでに私の中で確立されている。
高価な魔剣や魔道具ではなく、物理的なアプローチのみで確実に対処し、A品質の土属性の魔石を規定数回収する。
それが本日の業務計画だった。
今日は、平穏に、予定通りに片付けられればいいのだが……。
ルートを進みながら、私は右手に持ったハンマーで、壁面を等間隔に軽く叩いていく。
これまでも繰り返し行ってきた、岩の強度と内部の空洞を探るための打音検査だ。
帰路の安全は、自分の手で担保しておく必要がある。
硬い反響音が、通路に短く響く。
問題ない。
そう判断して次の一歩を踏み出し、再びハンマーを振るった。
これまでと違う、低く沈むような鈍い反響音。
私は足を止めた。
一見すると、目の前の岩壁は強固で、何の異常もないように見える。
だが、音の響きは、この分厚い岩のすぐ裏側が広範囲にわたって空洞化していることを示唆していた。
私はライトの光軸を絞り、音の変わった岩の表面を念入りに観察した。
「これは……」
微細な亀裂が、そこにあった。
ダンジョンが作り出す罠を警戒しながら、観察を続ければ、微かな酸の臭いがした。
「……罠ではない」
亀裂の奥、粘性を帯びた暗緑色の繊維状のものがへばりついているのが見えた。
菌糸だ。
私は記憶の中にある、協会が開示している資料と、目の前のものを比べた。
侵食菌糸。
岩壁の表面に発生する、強酸性の菌類モンスター。
表面に露出した菌糸を、刃物で削り取るか、火で炙るかすれば片付けられると記されていた。
暗緑色の菌糸。
微かな酸の臭い。
ここまでは、協会のデータと完全に一致している。
私は先ほどの打音検査の鈍い音を思い返す。
岩の内部が、広範囲にわたって空洞化している。
それは協会の資料にない異常だ。
私は考えた。
このモンスターは、岩盤の内部に真の核を持ち、内側から岩を溶かして大規模な崩落トラップを作り出す、環境破壊型のモンスターではないか。
表面だけを削り取ったところで、内部の核が残っていれば、確実に再生する。
帰路においてこの場所が崩落すれば、私の退路は塞がれる。
手前で気づくことができてよかった。
私がやるべきことは一つだ。
内部の核を破壊すること。
しかし、この分厚い岩盤をハンマーで砕いて核を引きずり出すのは、多大な時間と体力を浪費するだけでなく、それこそ崩落を誘発しかねない。
では、どうするのか。
私はバックパックを下ろし、中から発泡ウレタン充填剤を取り出した。
以前、吸音苔が自生するエリアで即席のシェルターを作るために使ったこともある資材だ。
本来は隙間を埋め、止水や断熱に用いるものだが。
私は容器のノズルを、岩の亀裂の奥深くまで慎重に差し込み、トリガーを引いた。
圧縮された薬剤が、岩の内部へ、勢いよく注入されていく。
容器の中身を限界まで送り込んだ後、私はノズルを引き抜き、一歩後退した。
化学反応によるウレタンの膨張と完全な硬化には、一定の待機時間が必要となる。
私はその場に留まった。
背後からやってきた別の探索者パーティーが、立ち止まっている私を不思議そうに一瞥し、先を急いで通り過ぎていく。
彼らにとって、何もない岩壁の前で立ち止まる時間は無駄なのだろう。
だが、私は動かない。
中途半端な対処は、後で自分自身に最大のツケを払わせることになる。
時間をかけて、最後まで見届ける。
これは私にとって最も確実なリスク管理だった。
数分が経過した。
岩盤の奥から、何かがひしゃげるような微かな振動が伝わってきた。
内部で極限まで膨張し、硬化したウレタンが、逃げ場を失った圧力によって、対象の真の核を圧壊したのだろう。
ウレタンをナイフで削れば魔石を得られるかもしれないが、そこまでやる必要はない。
崩落の懸念はなくなった。
それだけで充分だ。
私は退路の安全が担保されたルートをさらに奥へと進んでいき、目的地に到着する。
対象を探し、処理し、魔石を回収していく。
慣れた作業だ。
だからといって、気を抜くことはしない。
常に五感を働かせ、周囲を警戒しながら、業務を続けていった。
そうして予定していた業務を終え、私は定時に地上へと帰還を果たした。
往路で侵食菌糸を見つけた箇所では、何の問題もなく、帰りも通ることができた。
探索者協会のロビーに入れば、夕刻の喧騒に包まれていた。
換金カウンターで魔石を換金し終え、明細を手帳に挟んだ時だった。
「静河さん。……あの、少しよろしいでしょうか」
声をかけられ、振り返る。
顔馴染みの女性係員である井葉さんが立っていた。
「静河さんに、お会いしたいという方がいらっしゃっていまして。今、応接室でお待ちなんですけど」
脳裏をよぎったのは静河くんの両親だったが、彼らとは正式に関係を絶っていたし、もし万が一、それでもここにやってきていたとしたら、大人しく応接室で待っているとは思えない。
あの時のようにロビーで騒いでいることだろう。
「……わかりました。会います」
「ありがとうございます。こちらです」
私は井葉さんの案内に従って、ロビーの奥にある応接室の扉をくぐった。
静かな空間だった。
革張りのソファに、一人の女性が座っていた。
井葉さんは去り、残されたのは彼女と、私だけ。
彼女は私を見ると立ち上がり、深く頭を下げた。
目元の柔らかな皺と、落ち着いた佇まい。
初対面だ。
静河くんの、ましてや『私』の関係者でもない。
だが、その面影に、どこか見覚えがあった。
「突然お呼び立てをして、申し訳ありません。……わたしは、坂垣颯真の母です」
……ああ、だから見覚えがあったのか。
なるほど。
確かに彼によく似ている。
私は一礼し、彼女の対面のソファに腰を下ろした。
彼女は、膝の上で両手を強く握り合わせていた。
「あの子が、颯真が、ダンジョンで危険な目に遭い続けているんじゃないかって……ずっと、心配で」
彼女は、伏し目がちに言葉を紡いだ。
「傷を作って帰ってくることもあります。夜、不安で眠れない日もあるんです。あの子、家であなたのことをよく話すんです。自分とは違う、すごく頼りになる凄い人だって。だから……」
彼女が顔を上げ、すがるような目を私に向けた。
「もし、静河さんから何か言ってもらえたら。少しでも、危ない真似は控えるようにって……」
それは息子の無事を願う、親としての純粋な懇願だった。
あまりにも違う親の姿に、私は胸の奥に何とも言えない思いを抱えた。
だが、今は感傷に浸っている時ではない。
私は彼女を真っ直ぐに見ると、告げた。
「……申し訳ありません。私には颯真くんの選択を変える力も、権限もありません。彼がダンジョンで何を求め、どう動くかは、彼自身が決めることですから」
落胆の色が、彼女の顔に滲むのを見ながら、私は言葉を続けた。
「ただ」
彼女の落胆の色は変わらない。
それでも。
「彼が、颯真くんが今、ダンジョンという現場でどのように動いているか。私が見てきた事実をあなたにお話しすることはできます」
「…………」
長い沈黙の果に、彼女は零すように言った。
「……聞かせてください」
私は確かに頷き、頭の中にある彼との記憶を引き出した。
「颯真くんは、決して無謀ではありません。彼の直感の精度は、私が準備するどんなデータよりも早く、正確に危機を察知します。危機的な状況における判断の速さ。そして、何より、仲間への目配りを忘れないこと。……私が頭上からの奇襲に気づかなかった時、彼に命を救われたことがあります」
私が知る、坂垣颯真という人間の事実。
数字や論理ではなく、一次観測として積み上げてきた彼の姿を、一つひとつ正確に言葉にしていく。
私の話を黙って聞いていた彼女の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
手元のハンカチで口元を押さえ、声を出さず、ただ泣いている。
それが安堵の涙なのか、それとも別の感情なのか、私にはわからない。
気の利いた慰めの言葉をかけることもできない。
私にできることは、彼女が落ち着くまで、静かにそこにいることだけだった。
颯真くんの母親は私に何度も頭を下げながら、去っていった。
不安や恐怖が消えたわけではないだろう。
だが、私が語った事実が、彼女にとっての力になればいいと、今はそう思う。
帰りがけ、井葉さんに会ったので、会釈をした。
彼女もそれに応じてくれた。
私は協会を後にした。
春になったとはいえ、夜の風はまだ冷たかったが、不思議と不快には思わなかった。
今日あったことを、私は颯真くんに話すつもりはなかった。
彼と家族の問題であり、私が踏み込むべき領域ではないからだ。
私は私が生きていくため、歩き続ける。
それだけだ。
帰り道、スーパーマーケットに立ち寄った。
いつもなら自炊のための食材を吟味するところだが、今日は惣菜コーナーへと足を向けた。
そして私は、それを手に取った。
宿舎の自室に帰還し、私は電子レンジでそれを温め、テーブルの上に置いた。
なぜ、今日、これを——肉じゃがを選んだのか。
カロリーや栄養価を計算して導き出した、合理的な選択からではない。
今日、ダンジョンで、時間をかけて対象の終わりを最後まで見届けたこと。
そして、応接室で、息子を案じる肉親のあたたかな温度に触れたこと。
今日は、誰かが、誰かのために作った、そういうものが食べたくなったのだ。
箸でじゃがいもを割る。
中までしっかりと味が染み込んでいる。
口に運ぶ。
熱さと、甘辛い旨味が、身体の芯まで広がっていくようだった。
「……美味い」
私は無心で食べ続けた。
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