第64話:土の匂いと、稼ぎの仕送り
準備広場は、今日も当たり前のように探索者たちの熱気に包まれていた。
私はそれを横目にしながら壁際のいつものベンチに腰を下ろすと、本日の業務へ向けた最終的な安全確認工程へと移行した。
すべてが私の記憶する正しい状態、位置に収まっている。
「全条件、規定値内」
声に出して言った。
私はダンジョンへ向かうスロープを下っていった。
本日の目的地は、中層の主要ルートから少し外れた場所だった。
石英と花崗岩が入り混じる、乾燥した岩場区画だ。
ここは土属性の小型モンスターが主に出現するため、安定した利益が見込める。
岩肌の凹凸に注意を払いながら進んでいると、前方の窪みに身を潜めていた亀型のモンスターが、足音の振動に反応して鈍重な姿を現した。
私は歩みを緩めることなく、対象の視覚の死角へと静かに回り込む。
硬い外殻を避け、関節の僅かな隙間を狙ってサバイバルナイフの切っ先を沈めた。
対象は光の粒となって霧散した。
残された魔石を拾い上げ、表面の土埃を布片で丁寧に拭い去ってから専用のハードケースに収めた。
透明感のある土色の、綺麗なA品だった。
業務は順調だった。
予定通りの時間で、ノルマが確実な数字として消化されていく。
次の対象を探し、入り組んだ岩壁に沿って歩を進めていた時だった。
未確認の突発的な罠やモンスターの出現を、五感を働かせながら警戒していたのだが、視界の端に違和感を覚えたのだ。
岩肌に、不自然な真新しい痕跡が刻まれている。
私は近づいて観察した。
「……深い」
私の指が収まるほどの太い爪痕が三本、硬い花崗岩を無惨に抉り取っている。
同時に、異臭もあった。
このエリア特有の乾燥した土の匂いではない。
ひどく生臭い、泥と獣の体臭が混ざったような独特な臭気が、足元の土から立ち上ってくる。
脳内のデータベースが、事前に目を通していた協会の開示情報と即座に結びついた。
剛腕巨猿。
土属性の大型モンスター。
岩石の如き極厚の外皮と高い腕力を持ち、縄張り意識が異常に強い。
同属性・同格の個体が自らの領域に侵入した場合、激しい排斥行動をとる。
「……おかしい」
本来、この区画を主な生息域とするモンスターではないはずなのだが。
迷い込んだのか。
あるいは何らかの理由によって縄張りを移動させたのか。
理由は定かではないが、深い爪痕と濃厚な獣臭は、間違いなく自らの領域を誇示するためのマーキングに違いない。
直接の遭遇は避けなければいけない。
私は警戒レベルを一段引き上げ、マーキングの臭いが薄い方向へとルートを修正した。
迂回ルートを慎重に進んでいた時だ。
岩壁の向こうから激しい爆発音と、空気を切り裂くような怒号が響いてきた。
私は足を止め、壁の陰から音の震源を窺った。
すると、開けた空間で、真新しい防具を身に纏った若い探索者が巨大な影と対峙していた。
「……間違いない」
あの巨大な影は、剛腕巨猿である。
若者は肩に構えた大型の魔石駆動ランチャーの引き金を引いた。
空気が急激に圧縮され、強烈な爆炎が放たれる。
熱風が私の潜む岩陰にまで届いてきた。
しかし、土煙が晴れた後、剛腕巨猿は揺るぎなくそこに立っていた。
極厚の外皮が爆発の衝撃と熱を表面で拡散させ、内部への致命傷を完全に防いだのだ。
無傷の巨猿が、太い腕を高く振り上げ、怒りに満ちた咆哮を上げる。
その圧倒的な暴力を前にして、若者の顔から急速に血の気が引いていくのが見えた。
若者はランチャーを引きずりながら、剛腕巨猿に背を向けて一目散に走り出した。
剛腕巨猿は彼を追うかと思ったのだが、そうしなかった。
自分の縄張りから退けたことで、満たされたのかもしれない。
その場に留まり、興奮冷めやらぬ様子で周囲の岩に爪痕をつけ始めた。
その圧倒的な暴力の塊そのものが、私が向かおうと考えていたポイントへの迂回ルートを完全に塞ぐ形で居座ってしまった。
手持ちのサバイバルナイフで、あの分厚い装甲を正面から貫き、排除することは不可能だ。
魔剣があればあるいは可能かもしれないが、私の手持ちにそれは存在しない。
どうする。
予定を変更し、さらに別のルートへの迂回を再構築するか?
駄目だ。
それも難しい。
先ほど迂回を決断した理由だ。
剛腕巨猿のマーキングの臭いと、岩壁に刻まれた爪痕。
目の前で暴れている個体の爪痕と、私が確認した爪痕。
その二つには、明確な物理的差異があった。
岩を深く抉った三本の溝の幅と間隔が違う。
振り下ろされたストロークの角度が違う。
それの違いが示すことは明白だ。
ここには同種でありながら別個体が存在している。
その事実が導き出す結論は一つだ。
現在の私は、目の前の個体と、別個体との間に挟まれる形で、安全な帰路を絶たれている状態にあるということだった。
だが、悲観的になる必要はなかった。
協会が開示しているデータによれば、剛腕巨猿は強烈な縄張り意識を持っている。
つまり、両者を一つのポイントへ誘導し、互いの縄張り意識を衝突させればいい。
私はその隙に、空いたルートを静かに通り抜ける。
これが、次のポイントへ向かう最も確実な方法だ。
私は来た道を戻り、足元に転がっていた手頃な石を拾い上げると、別の個体が残したマーキングの臭いが強く染み付いた泥をこすりつけた。
そして再び、私の帰路を塞いでいる剛腕巨猿の元まで戻ってくると、二つの縄張りの境界線にあたる、少し開けた岩場へ向けて石を投擲した。
石が地面にぶつかり、乾いた音を立てて転がった。
剛腕巨猿が即座に反応した。
音にではない。
石に付着する見知らぬ同格の臭いにだ。
縄張りを侵されたと激怒した剛腕巨猿が咆哮を上げ、石が落ちた境界線へと猛烈な勢いで突進していく。
同時に、境界線の向こう側からも、重い地響きが迫ってきた。
激しい怒号が交錯し、二体の巨大な質量が正面から激突した。
岩石のような拳が振り下ろされるたび、岩壁が震え、粉塵が舞う。
それは単なる力と力の衝突に留まらなかった。
互いの太い腕が絡み合い、岩石の如き極厚の外皮へ、鋭い牙が突き立てられる。
獣特有の凄惨な噛みつき合いと、肉を引き裂く暴力。
私はその死闘を遠巻きに観察するつもりはなかった。
彼らが互いに意識を集中させている今こそが、帰路の安全を確保する最大の好機だ。
私は岩の陰に沿って身体を低く沈め、足音を完全に殺しながら、彼らが戦っている広場の端を通り抜けようとした。
その時だった。
背後で、重く、鈍い肉の潰れる音が二つ、連続して響いた。
足を止め、視線を向ける。
互いの暴力を極限までぶつけ合った結果、自慢の極厚の外皮は互いの牙と爪によって見る影もなく抉り取られ、二体の巨猿は致命的な出血を伴いながら、地面に倒れ伏していた。
荒い呼吸だけが漏れ、立ち上がる余力すら残されていない。
「……なるほど」
このまま放置して、予定通り、次のポイントへ向かうこともできる。
だが、手負いのままでも対象が生存すれば、明日以降、あるいは本日の帰還の際にこのルートを通る際の不確定なリスクとなる。
何より、外皮が完全に引き裂かれ、頸部の柔らかい生肉が無防備に露出している今なら、私のサバイバルナイフでも容易に急所へ突き立てることができる。
不確定要素を完全に排除し、同時に高単価の副産物を回収する。
私は足音を殺して死角から近づくと、無防備に露出した頸部へ刃を沈め込んだ。
一体、そしてもう一体。
二体の巨猿が光となって霧散し、後には魔石だけが残された。
私はそれを拾い上げ、汚れを丁寧に拭き取ってからケースに収めた。
残りのノルマを果たすため、私は周囲の安全を確認し、業務を再開しようとした。
その時、奇妙な感覚が足元をかすめた。
前方の特徴的な岩柱から、対面にある岩壁までの距離。
私はこれまでの業務で、この通路の歩数を正確に記憶していた。
一週間前の記録では、ここは二十歩で到達できる距離だった。
……一歩、二歩。
岩壁に手が届いた時、私は自分の歩数を数え終えた。
二十二歩。
物理的に硬い岩盤で構成された地形が、僅か一週間で移動するはずがない。
だが、私の歩幅の感覚と視覚的なデータは、空間そのものが微かに拡張しているという事実を示していた。
私は直ちに岩壁へと背を預け、前後の通路の奥深くへと視線を走らせた。
耳を澄ませるが、モンスターの気配も、岩盤が軋むような崩壊の予兆もない。
現在のこの空間に、即座に私の命を脅かす直接的な脅威はないと確証を得て、私はバックパックから手帳を取り出した。
原因を深く探求するつもりはない。
ただ、事実を記録するだけだ。
——地形の拡張バイアス・要確認。
一行だけ書き足し、手帳を閉じた。
事前に予定していた量の魔石をすべて回収し、私は定時に地上へ戻ってきた。
探索者協会のロビーは、朝とはまた違う、夕刻ならではの熱気に包まれていた。
私が換金カウンターの列に並んでいると、前方から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「くそ、近くにいた他のパーティーが囮になってさえくれれば!」
先ほど、剛腕巨猿の前から逃げ出した若い探索者だった。
彼は傷一つない真新しい防具を撫でながら、周囲の仲間に向かって愚痴をこぼしている。
「俺のランチャーで仕留められたのに! 助け合いの精神はねえのかよ!」
あの場には彼しかいなかったし、その自慢のランチャーも剛腕巨猿に通じていなかった。
それだけが事実だ。
列が進み、私の順番が来た。
カウンターのトレイに、ハードケースから取り出した魔石を置く。
小型モンスターの魔石の中に混じる、二つの巨大な魔石。
担当の係員が目を見開き、驚きの声を上げた。
「これは……剛腕巨猿の魔石じゃないですか! しかも、完全なA品! さすが静河さんですね、素晴らしいです!」
その声は、若者の耳にも届いたらしい。
振り返ることはしなかったが、彼の言葉が途切れ、完全に絶句した気配が伝わってきた。
私は明細を受け取り、静かにカウンターを離れた。
協会を出ようとした時、ロビーの片隅の光景が視界に入った。
『赤き戦斧』の若いメンバーが、スマートフォンの画面を真剣な面持ちで見つめていた。
画面に表示されているのは天気予報のようだった。
そのそばに立っていたリーダーが私の視線に気づき、近づいてきた。
そして言った。
「あいつ、稼ぎの半分を仕送りしてるんだ。実家が米を作っててな。毎日ああやって天気もチェックしてて」
その言葉には、確かな敬意が滲んでいた。
ダンジョンで縄張りを主張し合ったモンスター。
高価な武器を誇示し、失敗を存在しない他者のせいにする若者。
そして、日々の労働の対価を故郷へと送り続ける彼。
私は彼らに小さく会釈をし、春にしては珍しく、初夏のような空気の中へ歩み出した。
宿舎の自室に戻り、私は夕食の準備に取り掛かった。
惣菜で済ませることも、複雑な料理を作ることも、今日はしない。
米を研ぎ、充分に浸水させ、土鍋で炊く。
火加減を調整しながら、立ち上る湯気を見つめた。
やがて炊き上がった鍋の蓋を開ければ、白く輝く米粒が立ち上がっていた。
土鍋ごとテーブルへ運び、茶碗によそう。
口へ運ぶ。
米のやさしい甘みが口の中に広がる。
土地を耕し、天候を気にかけ、手間を惜しまなかった誰かの時間が、この一口に詰まっていた。
おかずはない。
今日は、炊きたてのご飯を食べるだけ。
ただそれだけでいい夜があるということを、私は深く理解したような気がした。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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