第62話:被害ゼロの損切りと、証明された差分
ダンジョン前の準備広場には、春らしいまだ冷たい空気が滞留していた。
私は壁際のいつものベンチに腰を下ろし、バックパックから必要な装備を取り出して最終確認を行っていた。
安全靴の紐を、左右の張力が均等になるようにイアン・ノットで結び直す。
腰のポーチに収めたポーションと止血剤の位置を指先で確かめ、サバイバルナイフを鞘からわずかに引き抜いて油膜の状態や刃の欠けがないことを目視する。
確認すべき項目を一つひとつ、確実に消化していく。
すべて問題なし。
私は息を吐き出し、意識を切り替え、立ち上がる。
「よう、静河」
不意に声が掛かり、視線を上げると、大剣を背負った颯真くんがいた。
「相変わらず準備は万全みたいだな」
「ええ。颯真くんも」
「おうよ」
颯真くんは笑い、手のひらを向けてくる。
どうやら今日はハイタッチを望んでいるようだ。
私は苦笑し、それに応じた。
「またな」
「ええ、また」
颯真くんは豪快に笑って、ダンジョンへと歩いていった。
その背中を見送っていると、声が聞こえてきた。
「第3区画のルートは完全に安定している。先週、俺が自分で確認したからな」
少し離れた場所で、中堅と思われる探索者が、新調した装備を見せびらかすようにしながら若手たちに語っている。
若手たちはその言葉に安心したように頷き、彼を先頭にしてダンジョンへと向かっていった。
私は彼らの背中を見つめながら、思考を巡らせる。
先週確認したという事実。
それは確かに過去の一次データとしては機能するかもしれない。
だが、私たちが相手にしているのはダンジョンだ。
先週のデータが、今日の安全の根拠に繋がるわけではない。
情報の鮮度を疑わないことは、致命的な見落としに繋がる。
私はバックパックから手帳を取り出し、ページを開いた。
そこに記録されているのは、昨日までの数日間に私が観測した、中層第3区画周辺の微細な環境変数の推移だ。
気流の僅かな乱れと、局所的な湿度の異常な上昇。
それらの数値の蓄積は、あのエリアの生態系や地質に目に見えない負荷がかかっていることを示唆していた。
そして今日、環境モニターで確認した数値。
私の計算では、第3区画のイレギュラー発生リスクはすでに安全の閾値を超えている。
私に、彼らに警告する義務はない。
探索者は自己責任でダンジョンに赴くのだから。
私は手帳を閉じる。
その動作で、意識を切り替える。
本日の業務は、その第3区画で行うつもりだった。
だが、予定を白紙に戻す。
代わりに、事前に代替案として用意していた第7区画へと変更する。
そこには『金剛石の回廊』のように、他の探索者たちが使う特別な呼称はない。
なぜかはわからない。
しかし、他の英雄志向の探索者のことはわからないが、私にとっては、業務が行えるのなら、特別な呼称などなくても何も問題はない。
全条件、規定値内。
本日の業務を開始する。
ダンジョンに足を踏み入れ、浅層から中層へと続く道を下っていく。
第7区画の入り口に差し掛かったところで、私は足を止めた。
空気が重い。
防毒マスクのフィルター越しでもわかるほど、微かに鼻を突く強酸の刺激臭が漂ってきている。
私は周囲の岩肌に視線を巡らせ、足元の岩盤を観察した。
見た目には普段と変わらない、硬く乾燥した岩の通路が続いているように見える。
だが、五感を働かせた結果、靴底から伝わる微細な感触が警戒レベルを引き上げる。
私は数歩下がり、足元に転がっていた手頃な大きさの石を拾い上げると、数m先の岩盤に向けて放り投げた。
当然、石は岩盤に落ちる。
だが、聞こえてきたのは、硬い岩に石がぶつかる重い音ではなく、極めて軽い音だった。
その音を聞いて思い出したのは、かつての『私』の記憶だ。
古い建設現場で目にした、表面だけが綺麗に整えられた空洞のコンクリート床のヒヤリハット。
一歩踏み出せば、その重みで容易く崩落する罠のようなものだ。
おそらく、地下水脈から発生した強酸のガスが、岩盤を裏側から時間をかけて侵食し、表面の薄皮一枚だけを残して巨大な空洞を作り上げているのではないかと推測する。
つまり、ここから先は、いつ床が抜け落ち、強酸の滞留する穴の底へ転落するかわからないトラップ地帯と言える。
私は突破のための算段を頭の中で組み立てた。
ロープ、カラビナ、サバイバルナイフ。
常時携行している基本装備は揃っている。
だが、今朝、出発の直前に目的地をここへ変更したため、このエリアの酸性環境を安全に渡り歩くための足場板や防酸シートといった事前準備品を持ち合わせていない。
強酸ガスが充満し、床の強度が一切保証されないこの空間で、手持ちのロープアクションのみで綱渡りを行うことは、私の定めた安全マージンを著しく割り込む行為だ。
手持ちの装備では、この障害を安全に突破することはできない。
私はこの事実を受け入れた。
そして、被害がゼロの段階で撤退するという、最も確実な損切りの実行を決めた。
第7区画での業務計画を破棄し、安全が担保されている浅層エリアへ、三度目の目的地変更を行う。
利益率は大きく下がる。
だが、最低限のノルマさえこなせば生活基盤は問題なく維持できる。
私は確かな足取りで浅層への上り坂を引き返した。
夕刻の探索者協会のロビーは、一日の労働を終えた者たちの疲労と熱気に包まれていた。
私は換金カウンターで浅層で回収した少量の魔石を提出し、ささやかな報酬を受け取った。
明細を手帳に挟み、バックパックに収めて、出口へと向かおうとした時、ロビーの入口付近から騒がしい怒声が響いてきた。
「先週は完全に安全だったはずなのに! なんであんなところにモンスターが溜まってるんだよ……!!」
見れば、朝、準備広場で見かけた中堅探索者と若手たちが、装備をボロボロにした状態で帰還していた。
泥と煤が、彼らの顔にこびりついている。
想定外の事態に巻き込まれ、命からがら逃げ帰ってきたことは想像に難くない。
彼らが信じたのは過去のデータであり、それに裏切られたと興奮しているが、情報収集を怠ったのは彼ら自身であり、誰を責められるわけでもない。
だが、彼らは怒りが収まらないため、ロビーで喚き続ける。
他の探索者たちが迷惑そうにしていることに気づかないまま。
私も情報収集を怠っていたら、彼らと同じ状態に陥っていたことだろう。
当初想定していたのは、彼らと同じエリアでの業務だったのだから。
だが、手帳に蓄積してきた日々の微細な一次データと、環境モニターの数値によって、正確に危機を予測することができた。
今日だけを見れば、魔石の数、そして買取金だけでいえば、ささやかな報酬かもしれないが、今日も生き残ることができたというのは、何よりも大きな成果だろう。
私たちが相手にしているのはダンジョンなのだから。
私は壁際の邪魔にならない場所へ移動し、手帳を取り出して、今日の第7区画での観測結果を新たな差分として一行書き足した。
手帳を閉じ、ふと視線を動かした先に、見知った背中があった。
深層の情報を貼り出した掲示板の前で、食い入るように紙面を見つめている颯真くんだ。
私は自販機でカフェオレと無糖の缶コーヒーを購入し、彼に近づく。
「颯真くん」
彼は僅かに肩を揺らし、振り返った。
「おう、静河か」
いつものように快活な笑みを作っている。
だが、私にはわかってしまった。
彼が無理に笑顔を作っていることが。
かつての『私』が散々見てきた部下や同僚が、大丈夫、まだやれると言い張った時と同じだったからだ。
極限の緊張状態を長く強いられた者が特有に見せる、神経の摩耗のサイン。
それが颯真くんの顔にも現れていた。
彼は深層の情報が張り出された掲示板を食い入るように見ていた。
そして、神経摩耗のサイン。
推測だが、彼は深層という未知の領域へ足を踏み入れているのではないか。
……いや、ほぼ確実に踏み入れているに違いない。
私は言及しなかった。
ただ、手の中で、さっき購入したばかりのカフェオレの缶がぬるくなっていくのを感じた。
誰に強要されたわけでもなく、彼には彼の目的があって、自らの意志でその危険な領域を行くことを選択した。
他者の領域に無遠慮に干渉することは、これまで築き上げてきた互いの距離感を損なうだけだ。
「……これを。カフェオレです。ぬるくなってしまいましたが」
「おお、サンキュー」
私が差し出した缶を颯真くんは受け取った。
「……では、また」
「ああ、またな」
私は彼に背を向けて協会を後にした。
宿舎の自室に戻り、冷たい水で顔を洗うと、ようやく一日が終わったという実感が湧いてきた。
私は簡易キッチンに立ち、今日の夕食の準備を始める。
冷蔵庫を開け、豚肉の細切れと玉ねぎを取り出す。
今日は手間のかかる複雑な調理はしたくなかった。
フライパンで豚肉と玉ねぎを炒める。
味付けは塩と胡椒だけ。
淡々と咀嚼し、飲み込む。
「……うん、美味い」
シンプルだ。
だが、今日に限っては、それがよかった。
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