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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾


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第61話:また、明日

第6部の始まりです。

楽しんでいただけましたらうれしいです。


「先輩! 今度、飯に行きましょうよ!」


「……ああ、いいですね」


「言質取ったスからね! 約束ッス!」


「わかりました。約束です」


「へへ。じゃあ、先輩、また明日ッス!」


「ええ、また明日」


 ++++++++++


 早朝の空気は、まだどこか冷たく、あの日、静河くんの家を出た朝に頬を撫でた空気の質感によく似ていた。


 ……あれから一年。


 私は探索者協会のロビーに足を踏み入れ、壁面に固定された環境モニターの前へ向かった。


 液晶画面に表示されている数値を視界に収める。


 バックパックから手帳を取り出し、ペンを走らせて記録を書き写していく。


 気圧、湿度、気温。


 いずれの数値も平時の規定値内に収まっている。


 本日の業務エリアである『淀みの窪地(スタグナント・ホロウ)』への変更を指示するような変数は、どの項目にも見当たらない。


 私は手帳を閉じた。


 換金カウンターへ視線を向ける。


 そこでは、顔なじみになった女性係員が何かしらの業務を行っているところだった。


 端末を操作し、手元の書類を整えていく。


 手際よく動く彼女の手が、最後に引き出しの中から小さなノートを取り出した。


 表紙が少し擦り切れた小型のノートだ。


 彼女はそれを開き、何かを書いた。


 数秒のことだ。


 彼女はノートを閉じ、再び引き出しに仕舞った。


 ふぅ、と息を漏らした彼女の視線が私のそれとぶつかった。


 彼女は少しだけ照れくさそうに言った。


「おはようございます、静河さん。見てました? 実は毎日、一言だけ書くんです。今日はこんな日になりそうだって。普通は一日の終わり、日記みたいなものを書くと思うんですけど。それじゃ面白くないなって。だから、こんな日になりそう、こんな日にしたいって。もう八年にもなるんです。自分でもこんなに続くなんて思っていなくて。ちょっとびっくりですよね」


 いつもよりずっと饒舌なのは、きっとそれだけの理由があるのだろう。


 私はゆるく頭を振った。


「いえ。いいと思います。井葉(いば)さんの、そういう書き方があっても」


 私の手帳とは違う。


 私の手帳に記されているのは事実だ。


 現場で、ダンジョンで生きていくために、それが必要だからだ。


 だが、井葉さんのような在り方があってもいい。


「……ありがとうございます」


 彼女のはにかみに私は会釈で応じてから、バックパックを背負い直して、準備広場へ向かった。




 壁際のいつものベンチに腰を下ろす。


 本日の業務へ向けた、最終的な安全確認工程へ移行する。


 足元の安全靴の紐を、イアン・ノットで結び直す。


 次に、ポケットを外側から軽く叩き、ポーションと止血剤が定位置にあることを確かめる。


 予備のライト、ロープ、各種溶剤のボトル。


 サバイバルナイフを鞘からわずかに引き抜き、刃の欠けがないことを目視する。


 両手にはめた手袋に摩耗はない。


 防毒マスクも問題はなく、それが最後の確認だった。


 全条件(コンディション)規定値内(オールグリーン)


 ベンチから立ち上がり、ダンジョンへの通路へ向かおうとした時だった。


 私の目の前に缶コーヒーが差し出された。


「よう」


 颯真くんだ。


「……おはようございます」


 私が受け取れば、彼はもう片方の手に持っていたカフェオレのプルタブを開け、一気に飲み干す。


 空き缶をリサイクルボックスに捨てると、拳を突き出してきた。


「またな、静河」


 私は苦笑し、彼の拳に、自分の拳をぶつける。


「ええ、また」


 颯真くんはそのままダンジョンへと歩き出す。


 彼の背中が連絡通路の暗がりの中で見えなくなるのを静かに見届ける。


「…………」


 缶コーヒーを飲み干し、空き缶をリサイクルボックスに捨ててから、私も歩き出した。




 スロープを下り、ダンジョン内部へと入る。


 空気が変わり、カビと湿った匂いが鼻腔に届く。


 浅層の通路を慎重に進んでいく。


 以前起きたスタンピードが残した岩壁の傷跡が、まだ残っている。


 だが、薄れてもいた。


 誰かが補修したわけではない。


 では、どうして薄れてきているのか。


 わからない。


 何も。


 私はその事実を記憶しながら、先へ進んだ。




 中層への境界線を越えると、空気がさらに重くなる。


 浅層の乾燥した砂埃の匂いが消え、湿気とカビの気配が色濃くなる。


 私は立ち止まり、首に下げていた防毒マスクを顔に当て、後頭部のストラップを左右均等に引き締めた。


 気密が保たれていることを確認してから、歩行を再開する。


 周囲の状況を観察する。


 岩壁の湿り具合、足元にある水溜まりの広がり、発光苔の分布状況。


 記憶の中にある先週の記録と照合していく。


 乖離は許容範囲内に収まっている。


 問題はない。




 緩やかな傾斜を下っていくと、すり鉢状の空間が前方に広がる。


『淀みの窪地』だ。


 上層部には、三組の探索者パーティーがすでに展開していた。


 彼らは互いの安全マージンを維持する距離を保ちながら、散発的に姿を見せる個体を処理している。


 私は彼らの動線と干渉しないルートを選び、すり鉢の斜面をさらに一段深い区画へと下りていった。


 窪地の底に近い層。


 ここを今日の私の業務エリアとする。


 私の手帳には、このエリアにおける岩肌の起伏、水溜まりの広がりや発光苔の密集度合い、それらが作り出す生態的な死角と気圧変動との相関関係が詳細に書き込まれている。


 湿気が最も重く沈殿する岩陰に目を向ける。


 そこには、背面の分厚い装甲に発光苔を自生させ、周囲の岩肌に完全に同化した、澱殻蟹(スタグナント・クラブ)が息を潜めていた。


 このエリア特有の重い湿気に適応したモンスターは、強固な装甲板を幾重にも重ね合わせているが、窪地の底という不整地で鈍重な巨体の姿勢制御を行うため、各歩脚の基部には構造上の隙間が存在する。


 私は足音を完全に殺し、対象の死角へと回り込む。


 サバイバルナイフを構え、その切っ先を隙間に正確な角度で押し込んだ。


 対象は反撃の間もなく光の粒となって霧散する。


 残された魔石を拾い上げ、布片で汚れを丁寧に拭い、ケースへ収める。


 同じ手順で、二体目、三体目、四体目と処理を続ける。


 そうして、今日のノルマの三分の一強を達成した時点で、私は動きを止め、エリア全体を確認した。


 上層で活動するパーティーの作業音が遠くから届く。


 足元の水溜まりが微かに揺れている。


 発光苔の青白い燐光が、岩肌の輪郭を縁取っている。


 すべてが既知の範囲内にあり、五感に捉えられる異常はない。


 次の個体を探し、処理するため、窪地の底の方向へ数歩進んだ時だった。


 私は足を止めた。


 視線の先。


 そこに、今、何かがいる。


 ……いや、違う。


 もういない。


 見間違いではない。


 確かにいたのだ、何かが。


 腕時計で時刻を、周囲を見回して地形を、それぞれ確認する。


 そして、私はこの事実を記憶した。


 あとで手帳に記録できるように。


「……今日の業務は、ここで終わりにしましょう」


 未知に挑むためにダンジョンに赴いているわけではない。


 生きていくためだ。


 業務継続はリスクに繋がると判断した。


 私は背を向け、帰路についた。




 中層から浅層への道を登る。


 意識が散漫にならないよう、周囲への注意を持続させながら進む。


 浅層に出たところで、防毒マスクを外した。


 外気が直接肺に入ってくる。


 向かってくる他の探索者とすれ違う。


 短い会釈を交わす。


 いつもと変わらない光景だ。


 地上へ出る。


 まだ午前中だ。


 いつもより早い。


 ロビーへ戻り、換金カウンターへ向かう。


 井葉さんが私を見て、意外そうな顔をする。


 だが、すぐに表情を戻して、私が提出した魔石をテスターで確認していく。


「今日は、少し早かったですね。もしかしてどこか調子が悪かったりとか……?」


「いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。ただ、今日はこれ以上の業務継続はリスクだと判断しただけです」


「なら、よかったです」


 彼女は本気で私のことを心配してくれていた。


 その事実に、私は深く呼吸をする。


「……では」


「ええ、またです!」


 私は明細を受け取り、彼女に一礼した。


 そのままロビーを出るため歩き出そうとして、私は足を止めた。


 報告するべきだろうか。


 ——何かがいた、それは確かだ。


 だが、それ以上が、何もない。


「静河さん?」


 井葉さんの呼びかけに、私は咳払いをした。


「……いえ、何でもありません」


 結果、私は報告しないことを選択し、もう一度一礼すると協会を後にした。




 宿舎の自室へ戻ってきた。


 荷物を下ろし、装備の点検と清掃を行った。


 シャワーを浴びようと考えたが、その前に記録しておくべきだと考えた。


 手帳を開く。


 いつもどおり、今日起こった事実を書き記していく中で、最後にそれを記録した。


 ——何かがいた。




 シャワーを浴び、ダンジョンの汚れをすべて落とす。


 それからキッチンに立った。


 今日はスーパーに立ち寄らなかった。


 すでに昨夜のうちに仕込んでおいたからだ。


 冷蔵庫を開け、保存容器を取り出す。


 塩もみした白菜ときゅうりの浅漬けである。


 程よく水分が抜け、塩味が野菜の奥までしっかりと染み込んでいる。


 小鉢に盛り付けると、炊飯器の蓋を開けた。


 立ち上る白い湯気とともに、炊きたての白米の甘い香りが部屋に広がる。


 茶碗によそい、テーブルへと運ぶ。


 肉や魚を使った、特別なご馳走ではない。


 質素で、地味な食卓だ。


 白菜を一枚、口に運ぶ。


 昨夜、少し手間をかけておいたものが、今日、ちゃんとここにある。


 当たり前のようでいて、その事実は、決して当たり前ではない。


 ダンジョンで生きていくということは、そういうことだ。


「……ごちそうさまでした」


 茶碗を空にして、私は箸を置いた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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