【アフターエピソード】:眠れない夜
本日2話目の更新です。
先に114話をお読みください。
新多京香が帰還し、三日が経っていた。
今、彼女は病室のベッドの上に座り、膝を抱えていた。
体の傷は問題ない。救出直後、颯真が差し出してくれたポーションを服用したおかげだ。
協会が念のためにと組んでくれた精密検査でも異常は何も見つからず、医師も太鼓判を押すほどだった。
それでも入院しているのは念のためであり、明後日の金曜日には退院できることになっている。
「……体は、大丈夫」
京香は小さく呟いた。
だが、大丈夫ではないところがあった。
気持ちだ。
ダンジョンで死にかけた。その事実が彼女の胸の奥に居座り続け、夜、眠ろうと目を閉じた瞬間、蘇ってくるのだ。その瞬間のことが。
——助けは、来ない。
探索者は自己責任の世界だ。ダンジョンに潜るというのは、そういう契約を交わすということ。誰かが都合よく駆けつけてくれることを期待するほうが間違っている。
頭ではわかっていた。ダンジョン特別管理法の制定に携わることになり、何度も資料で読み、自分でも法案の条文を起草したのだから。
だが、それでも思った。死にたくない、と。
父に会いたい。母に会いたい。絵美子や亜依、早紀たちにだって。そして、何より、お迎えして三年になる、大事なマリーさんと、まだまだ一緒にいたい……!
何度も意識が遠のいた。瞼が鉛のように重く、このまま落ちてしまえたらどんなに楽だろうと、誘惑が囁いた。だがそのたびに京香は必死に自分を引き戻した。爪を手のひらに食い込ませ、頬の内側を噛み、痛みで意識を繋いだ。
もし、眠った瞬間に探索者が通り過ぎてしまったら?
誰かが偶然この区画を通りかかった時、声をあげられなければ。
見つけてもらえなければ、それで終わり。
だから、京香は絶対に眠れなかった。
京香は抱えた膝に頭を埋めた。
……ああ、嫌だ。誰か、
誰かお願い、
…………誰でもいいから、
……ねえ、
………………お願いだから、
聞こえるでしょ?
助けて——、
………………ねえ、お願い、
死にたくないの、
…………死にたくない、
死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない——。
彼女が恐怖に飲み込まれそうになった、その時だった。
コン、コン。
ドアがノックされた。
医師、いや、看護師だろうか。
京香は慌てて膝から顔を上げ、声の調子を整えると言った。
「……どうぞ」
入ってきたのは、私服姿の颯真だった。
検査入院をしたことを協会の職員から聞きつけて、見舞いに来たのだという。
そう言えば彼が訪れてもいいかと、事前に協会から確認の連絡が来ていて、大丈夫と答えたのをすっかり忘れていた。
「悪いな、こんな時間に」
「いえ、大丈夫です。だってあなたも探索者ですから。今日もダンジョンへ行ってきたんですよね?」
京香は笑顔を作り、颯真に丸椅子を勧めた。
「あれから三日か。大丈夫か?」
「検査では、異常は見つかりませんでした。念のため、あと数日入院して……退院は金曜になりそうです」
よどみなく答えることで、自分は大丈夫で、何も問題などないのだと明らかにした、そのつもりだった。
だというのに、颯真は言った。
「無理して笑う必要なんかねえよ」
「え」
椅子に腰を下ろした颯真は京香を真っ直ぐ見ていた。
「ダンジョンで死にかけたんだ」
「……何を言って——」
「怖えのは、当たり前なんだよ」
駄目だと思っても、止められなかった。気がつけば京香の口から攻撃的な声音で、言葉が飛び出していた。
「あなたに何がわかるって言うんですか!?」
京香は颯真を睨みつけた。
「現役で、活動を続けている探索者のあなたに! 死にかけて、無様に膝を抱えて泣くしかなかった人間の気持ちがわかるって言うんですか!?」
「……俺も未帰還者リストに名前が載ったことがあるって言えば、意味がわかるか?」
京香は息を呑み、颯真を見た。
颯真はその視線を静かに受け止めると、膝の上で手を組み、視線を少しだけ落として語り始めた。
「……深層に挑戦したんだよ。いけると思った。静河も心配してくれてた。それでも俺なら大丈夫だって、絶対いけるって、あの時はそう思ってた。けど、その結果、死にかけた。ヘマをやらかした直後は、まあ、静河じゃねえが、生き残るために必死だったよ。できることは全部やって。でも、駄目だった。死ぬんだって思った。——黒木さんが助けてくれなかったら、俺は今ごろ、ここにはいねえんだわ」
淡々とした口調だった。だからこそ、その言葉の重みが京香に伝わってきた。
「だから、俺にはわかるんだよ。ダンジョンで、誰にも気づかれねえまま死んでいくかもしれねえ恐怖ってやつが」
それっきり、颯真は黙り込んでしまった。視線は落としたままだ。
京香はそんな颯真を見て、見続けて、
「……いつ」
すがるように問うていた。
「いつになったら、大丈夫になりますか。もう、大丈夫なんですよね。だって、あなたは……探索者として、ちゃんと復帰して——」
「ならねえよ、大丈夫になんかな」
あっさりと、颯真は言った。
「ずっと怖えよ。今も毎日、あの時のことを思い出す。眠れねえ夜だって、ある」
颯真の言葉を聞き、京香の顔から感情が消えた。
絶望が胸の底からせり上がってくる。治らない。この恐怖はずっと消えない。現役で活躍し続ける颯真ですらそうなら、自分なんかが乗り越えられる日が来るわけがない。ああ、そんな日は永遠に来ないのだ——。
「それでも」
手を強く握りしめ、颯真は京香を見る。
「それは生きてる証だ。だろ?」
わけがわからない、そんな眼差しで京香は颯真を見た。
「だってよ、生きているから、怖がれるんだぜ? 死んだらそんなの無理だろ? だから」
俺はそう思うようにしてると、颯真は少し照れくさそうに笑った。
「ま、考え方一つで、変わってくるもんもあんだろ。……これも、まあ、静河の受け売りみてえなもんか」
生きてるから、怖がれる。
確かに颯真の言うとおりだった。
恐怖を消そうとするから苦しかった。どうしたって、何をしたって消えてなくならないから。でも、消さなくていいとしたら? 怖がって、抱えたままでいいのなら……?
……ああ、そうか。それでいいのか。
京香は自分でも気づかないうちに、小さく微笑んでいた。
そんな京香を見て、颯真も微かに、だが確かに笑った。そして小さく咳払いをすると、
「なあ、一つ聞いてもいいか?」
とそう言った。
「え、あ、はい。どうぞ」
京香は真面目な顔を取り戻し、頷いてみせた。
「静河から聞いたんだけどよ。あんたは何で静河のやり方を探索者のスタンダードモデルにしようなんて思ったんだ? 確かにあいつはすげえ奴だけどよ」
「……そうですね」
京香はその時のことを思い出しながら、静かに語りはじめた。
すべての始まりは、ダンジョン特別管理法に関わるようになったことだった。
探索者という存在が、ダンジョンに潜り、モンスターを倒し、地上へと魔石を運んでくる。それは知っていた。ニュースでも見るし、データでも扱う。しかし、実際にその探索者たちが、いったいどんな人間なのか。それを京香は知らなかった。
だから調べた。そうしてわかったのだ。探索者のほとんどが、物語に出てくるような英雄に、勇者に、憧れていることが。他の誰にもできないことをやってのけて、皆から称賛される。そんな姿を、心のどこかで夢見ていると。
その気持ちはわかった。京香自身、小説を読み、その主人公に自分がなったら、と夢想したこともあったから。
だが、自分もそうなろうとまでは思えなかった。だが、探索者たちは違った。実際に、そういう世界に飛び込んでいく。ダンジョンという死が身近にある異世界に。常識の通じないモンスターを相手にして、勝利を掴む。
探索者はすごいと、京香は思った。
しかし、そんな探索者にも、いろんな人間がいた。
称賛に酔い、力に驕り、そしてダンジョン特別管理法が制定される、そのきっかけを作ってしまうような者もいたのだ。
どうすれば、この人たちを正しい方へ導けるだろう。京香は官僚らしく、考えた。制度で。仕組みで。線引きで。
探索者のデータを四六時中見つめていた時、見つけたのだ。ただ一人、突出した成績を残しつづけている人物を。
それが、静河だった。
自分より年下なのに。探索者になって日が浅いはずなのに。彼はどの探索者よりも、結果を出し続けていた。しかも他の者たちのように、驕り高ぶったりしていないようだった。
彼なら。彼のやり方なら。
そのやり方を、他の探索者たちも身につけられるようになれば。
きっと、みんなが、幸せになれる。
そう、思ったのだ。
京香の話を聞き終えた颯真は、ああ、と言葉を漏らした。
「確かに、静河はすげえ奴だからな。あんたがそう思うのも無理はねえか。……けど、あいつのやり方ってのは——」
「ええ。わかっています」
京香は颯真の言葉を先回りするように、はっきりと言った。
「万人に向くやり方ではありませんでした。静河さんのやり方は、静河さんにしか適しませんし、静河さんでなければ意味がありません」
颯真が頷いた。
「でも、静河さんの『考え方』は違います。きっと、これからの探索者の指針になる。やり方は真似できなくても、考え方なら、誰でも持てるから」
京香が告げれば、
「もう大丈夫そうだな」
颯真が何かを呟いた。問いかけたが、彼は「何でもねえ」と笑って教えてくれなかった。
「じゃあ、そろそろ行くわ」
颯真が腰を上げる。
「あの、颯真さん。助けていただいたことと、今日のこと、本当にありがとうございました。……わたしも、生きているから怖がることができるんだって、そう思って、がんばってみます」
「おう」
そのまま病室を出ていくと思ったのだが、颯真はドアノブに手をかけたところで足を止めた。こちらに背を向けたまま、言った。
「……あの、よ。その、どうしても、言いたいことがあって」
京香が颯真の後ろ姿を見れば、その耳が赤くなっていることに気がついた。
……え、待って、と京香は思った。ここにいるのは男と女。耳を赤くして言いたいことがあるって、もしかしてそういうこと、と。
今、京香に恋人はいない。いや、正直に言えば、生まれてこの方、一度もできたことがない。だが、もしかして——いや、まさか、そんな。でも、彼はこんなに優しくて、しかも普通にかっこよくて。命を助けてくれた人だ。でも、いきなりそういうのはまだ早いというか。そういうことは、もっとこう、段階を踏んで——。
「あんた、犬、飼ってるんだろ」
「——え」
犬?
「……うちもさ、最近お袋が犬を飼いはじめてよ。それがどうにも、親父にも妹にも、よく懐いてるってのに……俺にだけ、なぜか懐かねえんだ。静河に相談して、それですっげえ高え餌をやってみたんだけど、それも駄目で。なあ、どうすれば、懐いてくれるんだ……?」
心底困った、という顔で、颯真がこちらを振り返る。
「……告白じゃなかった!」
「ん? 告白ってなんだ?」
「あ、いえ。なんでもないです」
当たり前だ。何を盛大に勘違いしているのだ、自分は。京香は熱を持った顔を、手でぱたぱたと扇いだ。深呼吸をしろ。落ち着くんだ。
「……そう、ですね。犬と仲良くなる方法は——」
と、そこまで言いかけたところで、看護師が顔を出した。
「すみません、そろそろ面会終了のお時間でして」
「じゃあ、俺はこれで」
颯真が慌てて病室を出る。
その背中を京香はとっさに呼び止めた。
「あ、あの! まとめておきますから! わたしが、マリーさんと仲よくなった方法!」
「サンキュー! 助かる!」
颯真が振り返り、屈託なく笑った。
ドアが閉まり、病室に静けさが戻ってくる。
「……かっこいい人ですね」
看護師が京香を見て、笑顔で言った。
「がんばってくださいね!」
「はい——え」
「あれだけかっこいい人なら、狙ってる人、けっこういると思うので」
看護師はファイトと握りこぶしを作って、病室を出ていった。
そんなつもりはないのだが。確かに出ていこうとする颯真を引き止めた様子を見れば、そう思われても仕方がないのかもしれないが。本当にそんなつもりはまったくなくて。
その夜、やはり京香は眠ることが出来なかった。
それは恐怖のせいではなく、颯真のことばかり考えていたからだった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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