第114話:帰還
本日、本編とアフターエピソードの2話更新します。
7時10分にアフターエピソードが公開されます。
——私はその文字列をただ見つめ続けていた。
知った名前がこのリストに掲載されるのを見るのは、これで二度目だった。
一度目は颯真くんだった。
だが、彼は生きていた。黒木氏の助けがあったことは確かだ。しかし、彼自身が探索者として培ってきた経験、それに強靭な意志と直感があったからこそ生還できたという事実も、無視することはできない。
対して、彼女はどうだろうか。
探索者になる直前まで、彼女は探索者の安全と成功を叶えようと懸命に奔走する官僚だった。つまり、探索者としては完全な素人だ。
彼女のライセンスは等級IIIであり、立ち入りが許可されているのは浅層のみ。だが、変容し続ける現在のダンジョンにおいて、浅層だから安全であるという保証は存在しない。
生存は絶望的だろう。私の理性が冷酷な計算結果を弾き出した。
私が探索者として登録した一年前のあの頃に比べれば、未帰還者の数は確実に減っている。
私が構築した手順や、それを基にして制定された新しい管理規則が、結果として多くの命を繋ぎ止める防波堤として機能してきた。
しかし、それでも、未帰還者が皆無になったわけではないのだ。
胸の奥に、重く、冷たい何かが沈んでいく。
「……私は、このリストが撤廃される日が来ることを望んでいる」
ふいに、隣から声が聞こえてきた。
見れば、権藤さんが立っていた。
彼の視線も未帰還者リストに向けられていた。
権藤さんの横顔には現場を見守ってきた人間として、失われていく命に対する深い悲痛の色が滲んでいた。
「いや、いつか必ず撤廃してみせる」
彼は自分自身に言い聞かせるようにそう告げると、自身の業務を行うため、受付カウンターの奥へと姿を消した。
私は小さく息を吐き出した。
私が私として生きていくため、現場へ向かう。
立ち止まるつもりはない。
ダンジョンに入れば、肌に触れる空気が変わり、土と埃の匂いが鼻腔を突いた。
浅層の乾燥した通路だ。
歩みを進めながら、私は周囲の岩壁や足元に視線を巡らせる。
業務を開始するにあたって、意識を完全に切り替えたつもりだった。余計なことを考えながら生き残れるほど、ダンジョンは昔も今も甘くはない。だが、思考のどこかに、彼女の行方を捜そうとする気持ちが混じっていたのだろう。
普段であれば察知できたその襲撃を、私は気づくことができなかった。
岩の隙間からヴァーミンラットが飛び出してきて、私の脚に鋭い牙を突き立てようとした。
「——ッ」
私は反射的に身体を捻った。
対象の牙が私のズボンの生地を浅く掠め、不快な摩擦音が響いた。
対象は私を仕留められず、私も仕留められなかった。
サバイバルナイフを抜き、対峙する。
対象が再び私の足を狙って飛びかかってきたその瞬間、私は正面から受け止めるのではなく、斜め前へと踏み込んだ。
すれ違いざま、無防備になった急所の頸部へ、ナイフを突き立てた。
処理できた。だからこそ、今、床には小さな魔石が落ちている。
だが、私はそれを拾い上げず、ただ見つめた。背筋を冷たい汗が伝い落ちていた。
これまで幾度となく通った浅層の、同じく幾度となく対処してきた対象だ。変容もしていない。初めて対処した時とまったく同じパターンで、まったく同じデータだ。それなのに。
今回対処できたのはただ運が良かったからだ。それ以外にはない。
私は岩壁に背を預けて呼吸を整えた。
撤退という二文字が脳裏をよぎった。
だが、私はここに来た。
『静寂の晶洞』、半透明の水晶のような巨大な結晶柱が林立し、音が極端に反響しにくい特性を持つエリアだ。
感傷がないと言ったら嘘になる。だが、私はダンジョンで生き残ると決めた。ならすべきことは一つしかない。
変容前は環境が安定しており、確実な収益源として利用していた。
変容後も一度調査に訪れ、環境の変容は、時折、結晶同士が不規則に共鳴して不快な耳鳴りを起こす程度の変化しかなく、モンスターの変容も注意深く行動すれば問題はほとんど無視できるレベルだった。
光源の光が乱反射して距離感が掴みにくいが、私は足元に神経を集中させ、音のない空間を慎重に進んでいく。
結晶の陰に、周囲の環境と完全に同化したシルエットを見つけた。
晶殻蜥蜴。
背面に水晶と同じ質感の装甲を持つ、待ち伏せ型のモンスターだ。
変容でその背中の結晶がより鋭利になり、近づきすぎれば皮膚を容易く切り裂く凶器と化した。
だが、変容はそれだけだ。変容が発生する前と対処の手順に変わりはない。
対象の視覚の死角へと回り込み、関節の柔らかな組織にサバイバルナイフを突き立てる。
対象は霧散し、魔石が落ちる。
私はそれを拾い上げ、ケースに収める。
その反復作業を繰り返す。
いつまでもこの状況が続くとは考えていない。変容は深化する。その事実を私は確認している。
対象が突然、背面の結晶を射出する機構を得るかもしれない。あるいは別の攻撃手段である可能性もある。これまでどおりの手順で対処し続けることで、致命傷を負うかもしれない。
だから集中して行う。何か変化は起きていないかと、周囲や対象を常に注意深く観察しながら。
静寂の中、結晶の共鳴音が時折耳の奥を刺す。
私は定時まで体を動かし続けた。
定時少し前にノルマを達成し、私は協会のロビーに戻ってきた。
探索者たちが作り出すざわめきを無視して、換金カウンターの列に並んだ。
自分の番が来て、ハードケースから魔石をトレイに移し、係員に査定を任せる。
その時、ダンジョンに通じるゲート付近が騒がしくなった。
一瞥すれば、そこには見知った青年——颯真くんがいた。
彼は誰かに肩を貸し、支えるようにして歩いていた。
いったい誰に肩を貸しているのか。私はその人物を見て、目を見開いた。
「——ッ」
新多氏だった。
生きていたのだ、彼女は。
颯真くんが彼女をロビーの長椅子に座らせる。
誰かが呼んだのだろう。協会に併設された医務室の職員が駆けつけ、彼女に声をかけ、その状態を確認し始めた。
職員の声掛けに、彼女は何かを答え、時には頷いていた。しっかりとした応答である。
「あの、静河さん?」
呼ばれて振り返れば、職員が明細を差し出していた。
「……申し訳ありません」
私は謝罪し、それを受け取った。
少しだけ考えてから、私は彼らの元へ向かった。
先に私に気がついたのは颯真くんだった。彼は疲れた顔をしていたが、そこには確かな満足感も滲んでいた。
「よう、静河。調子はどうだ?」
「……彼女はどこにいたのですか?」
彼の問いに答えない私を咎めることなく、颯真くんは教えてくれた。
「浅層の奥だ。足場が崩れるトラップに嵌まって動けなくなってたところを、偶然通りかかってな」
偶然。……ダンジョンにおいて、その偶然が重なる確率はどれほど低いことか。
颯真くんのずば抜けた直感と、彼女自身の運が、彼女の命を繋いだのだ。
職員の聞き取りと手当が終わったのだろう。職員は去っていき、残された新多氏が顔を上げ、私を見た。
防具はボロボロだが、顔や手足など、見た目には傷はない。ポーションを使用したのだろう。だが、顔色はひどく青ざめていた。
「あなたが無事で、本当によかった」
気がつけばこぼれ出ていた私の言葉に、彼女はゆるく首を振った。
「……ごめんなさい」
無事生還したのに。奇跡のような出来事なのに。なぜ、彼女は謝罪するのだろう。
「わたしはもう、静河さんの方法が正しいだなんて、言えません」
彼女は自分の膝の上に置かれた、泥だらけの両手を強く握りしめた。
「モンスターに出会った時、最初に感じたのは恐怖でした。注意深く観察して行動するなんて無理です。わたしにできたのはただ必死に逃げることだけ。それだって、周囲の状況を確認する余裕なんてなくて……だからトラップにはまってしまって」
初めてダンジョンに潜った日のことを思い出す。ダンジョンの空気や雰囲気。モンスターと遭遇した瞬間に感じた感情。私も確かに怖かった。
「静河さんの方法を他の探索者のスタンダードモデルにしても、本当の意味で実行できるのは静河さんしかいない。静河さんが仰っていた意味がよくわかりました」
怪我の功名ですね、と彼女は笑う余裕があった。そして、こう続けた。
「でも、静河さんの考え方は、有効だとわかりました」
彼女が私を真っ直ぐに見つめた。
「考え方、ですか」
「無理や無茶をしない。撤退のラインを見極める。……生き残るためにできることは何かと常に考え、模索し続ける」
それは、確かに私が彼女に語ったことだ。だが——。
「トラップにはまり、何度も死ぬんだと思いました。でも、そのたびに、絶対生きて帰るんだって。そしてマリーさんに『ただいま』を言うんだって、そう考えて」
マリーというのは、彼女が飼っている犬だという。
「生きて帰るためには何をすればいいんだろうって、必死に、これまで生きてきて、こんなに考えたことがないってくらい、めちゃくちゃ考えて」
「通りかかったのは偶然だけどよ、物音が聞こえたんだよ。カツン、カツンってな。新種のモンスターでも発生したかと思って近づいたら」
彼女が石で壁を叩いていたらしい。声を出すのは体力を消耗する。だから自分はここにいると知らせるために、そうしていたのだという。
「……それは同時にモンスターも招きかねません」
私が告げれば、彼女は頷いた。
「……はい。わかっています。わたしもそれは考えました。ですから、ずっと叩いていたわけではありません。タイミングを必死に考えて。今なら大丈夫のはずとそう信じて」
彼女に続き、そして、と言ったのは颯真くんだ。
「彼女は賭けに勝った。——だろ?」
彼が私に向かって言う。
「……そうですね」
モンスターを招く可能性が少しでもあるなら、どうだろう、私が同じような状況になった時、私も彼女と同じことをしただろうか。おそらくしないだろう。別の手段を必死に考え、構築するはずだ。
だが、それは私のやり方であり、彼女のやり方ではない。
彼女は彼女のやり方を必死に考え、模索し、構築し、どんな形であっても、生きて帰ってきた。ダンジョンから。
「ダンジョンで生きていくことは、確かに技術も必要なんだと思います。ですが、考え方も同じくらい大事なんだと思います。静河さんの考え方は、すべての探索者に共有すべきだと思います」
初めて話した時のような熱気は、今の彼女からは感じられなかった。だが、確かな力強さはあった。
「……それは俺も同感だ。静河のやり方は真似できねえし、真似するつもりもねえが、その考え方は間違ってねえと思う」
颯真くんからはっきりと告げられ、私は驚いた。
彼を見れば、照れくさいのか、視線をそらしていた。だが、その耳の先がわずかに赤くなっていることに気がつく。
私は彼女に告げた。
「……ポーションを使用したのですよね。怪我は治っているかもしれませんが、精神的なものまで回復したわけではありませんので。今はゆっくり休んでください」
「ありがとうございます。……颯真さんも、本当にありがとうございました」
二人に別れを告げ、協会を出る。蝉の鳴き声がどこからか聞こえてきた。
安堵。そして不思議な充足感。今、私の胸の中に広がる感情だ。
私は夕食の食材を購入し、宿舎に戻ってきた。
さっそく夕食にすることにした。
今日は、初鰹のタタキだ。ネギ、ミョウガ、大葉、生姜、にんにく——それらの薬味を山のように乗せ、ポン酢で食べる。
「……美味い」
それしか出てこない。
同時に、脳裏に、今日見た新多氏の眼差しが蘇る。
泥にまみれながらも、生きて帰るという強固な意志を宿していた。
そして実際、彼女は生還した。
私は鰹のタタキに伸ばした手を止め、立ち上がった。冷蔵庫の奥から、よく冷えたノンアルコールビールを取り出した。
プルタブを開ける。
「……乾杯」
久しぶりに飲むノンアルコールビールは、格別だった。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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