第115話:提示された道標
壁面のモニターにはダンジョンにおける環境変動の数値が並んでいた。
その数値を手帳に書き写す私の横を、探索者たちが不機嫌そうな表情で通り過ぎていった。
南塚原が引き起こしたあの不祥事の余波は、いまだこの場所に暗い影を落としていた。
私は小さく息を吐き、事前審査に必要な申請書類を書くため、記載台に向かった。
私がすべきことは、今日もダンジョンに向かい、生きて帰ってくること。それだけだ。
いつものように書類を書き始める、その時だった。
入口のドアが開き、誰かが入ってきた。探索者だろう、そう思った。
……それはあながち間違いではなかった。
だが、私が想像していたのとは違う人物だった。
入ってきたのは新多氏だったのだ。
未帰還者リストに名を連ねながら、理不尽な暗闇から彼女が帰還して、一週間が経っている。
死の淵を覗き込んだ恐怖は、まだ彼女の体の奥底にこびりついているだろう。それは容易に拭い去れるようなものではないはずだ。
だが、ロビーを歩く彼女の姿、表情に、怯えのようなものは見当たらなかった。
かといって、虚勢を張るような肩の力みも感じない。
初めて出会った時の、あの真っ直ぐで眩しい眼差しの奥に、容易くは折れない確かな芯が通っているのが見て取れた。
彼女は両手に紙袋を下げていた。通行の邪魔にならないところで足を止めると、紙袋を下ろしてゆっくりとロビーを見回した。
その視線がある一点で止まった。何を見ているのだろうか。
視線を向ければ、そこにいたのは颯真くんだった。太い柱に背を預けるようにして立っていた。
彼は彼女の視線に気がつくと、屈託のない笑みを浮かべ、手を上げた。
新多氏はそれに応えるかと思ったが、その顔を一瞬にして夕焼けのような赤に染めただけだった。
颯真くんが驚いている間に、彼女は慌てた様子で一礼し、すぐに何でもないような表情を取り繕った。
そして咳払いをすると、よく通る声を響かせた。
「皆さん! 少しだけ、わたしに時間を預けていただけませんか……!?」
その声に、思い思いに探索の準備を進めようとしていた探索者たちが、何事かと手や足を止めた。
新多氏は地面に下ろしていた紙袋から何かを取り出し、掲げてみせた。
「このパンフレットは——」
と、彼女がそこまで言ったところで、何度か挨拶を交わしたこともある中堅探索者から荒々しい声が飛んだ。
「何だ!? また国からの押しつけか!? 次はどんなふうに俺たちを管理しようってんだ……!?」
「保安職員の件、俺たちはまだ納得しちゃいねえんだぞ!」
そうだそうだと、反発の声があちこちから上がった。
それが引き金となり、ロビーの空気は険悪なものとなって、新多氏の言葉は探索者たちの怒鳴り声にかき消されるしかなかった。
だが——。
「うるさい……!!」
と、そう叫ぶ者がいた。探索者の中にだ。
「今、あの人が何か喋ろうとしているの! それを大声で邪魔することが、いい大人のすることなの!?」
水無川さんだった。
「あたしは! あの人の話が聞きたい! 文句を言いたいだけの人はどっか行って! 邪魔だから!!」
彼女の声はよく通り、探索者たちだけでなく、新多氏も驚き、呆気にとられていた。
水無川さんは腕を組み、満足そうに頷いた。
「はい、静かになった。話、聞かせて」
「え、ええ」
新多氏は何とか衝撃から立ち直ると、最初に怒声を浴びせてきた中堅探索者を真っ直ぐに見て、こう言った。
「これは、国や管理協会からの命令ではありません!」
と。
「嘘をつけ!」
と、別の探索者が大声で怒鳴ったところで、水無川さんがその探索者を睨みつけ、その探索者は、
「……う、嘘をつけ」
と小声になって、
「どうせ中身は、あれをするな、これをするなっていう規則の羅列だろ」
吐き捨てるように言い、新多氏に近づき、その手からパンフレットをひったくるようにして奪い取った。
それを見た探索者がうめき声を漏らした。
「……おい、何だよこれ。本気か?」
隣の探索者が言う。
「なあ、何が書いてあるんだよ」
ひったくった探索者は困惑したような感じで、パンフレットに書いてあるだろう文字を読んでいく。
『生きて帰ることを最優先とする』
『撤退は失敗ではない』
『既知を過信しない』
『自分の方法は自分で模索し続ける』
それを聞いた探索者たちが困惑したように顔を見合わせる。
「規則、……じゃねえよな?」
「自分で考えろって、私にはこれ、完全に突き放してるようにしか見えないわ」
そして、また誰かが言った。
「こんなの当たり前のことじゃないか! 今さら言われなくても、みんなわかってるさ!」
同意の声を上げる探索者たちを、新多氏は静かに見つめていた。
そして言った。
「本当に、それは、当たり前のことでしょうか?」
彼女の問いかけに、ロビーの音が消えた。
「わたしたちは、ダンジョンという非日常の前に立つと、つい無謀な賭けに乗りたくなってしまいます。目の前の大きな成果や、周囲からの称賛のために。ですが、その賭けに、わたしたちは必ず勝ち続けることができるでしょうか。……わたしはそうは思いません。だって、もし本当にそうであるならば、未帰還者リストなどというものは存在しないのですから。違いますか?」
その問いに応えられる者は、誰もいなかった。
「でも、皆さん! 生きて帰ることができれば? また挑戦できる。前回の失敗を活かして、新しい方法で。自分が成功するやり方を、模索し続けることができるんです……!!」
彼女はパンフレットを握りしめ、それから苦い笑みを浮かべてみせた。
「わたしは、未帰還者リストに名前が載りました。モンスターに恐怖し、逃げ出してトラップに嵌まり……ああ、わたしは死ぬんだと、考えました」
浮かべてみせたはずだったのだが、それは明らかに失敗していた。
口元は震え、顔色もはっきりとわかるほど悪くなっている。
「……今も、まだ、夜、眠るのが怖いです。トラップに嵌った時、寝たら死ぬと思っていたから。だから、怖いんです。……でも、それも生きているから、感じられることなんです」
生きているから、恐怖を感じられる。……なるほど。確かにそのとおりだ。私は頷いていた。
そして、と彼女は言葉を続けた。
「さっきも言ったとおり、生きてさえいれば、失敗を経験にして、新しい方法で挑戦することができる。わたしも失敗を経験にして、新しい方法に挑戦します。それがこれです」
新多氏はパンフレットを大きく掲げた。
「皆さんがダンジョンで生き残って、安定して生きていけるようになってもらうこと——それがわたしの挑戦であり、わたしの勝利です」
かつて南塚原は、自らの思い込みで私を疑い、最後は捏造までしてダンジョンから排除しようとした。
だが、彼女は違う。彼女は探索者を信じている。それがしっかりと伝わるだけの確かなスピーチだった。
誰かが拍手をした。
水無川さんだった。
だが、彼女だけではなかった。
もう一人いて、それは颯真くんだった。
颯真くんを見た新多氏の顔が再び赤くなるが、先ほどのように慌てた感じにはならず、水無川さんに深く一礼し、颯真くんにも同じようにすると、むしろやりきったと言わんばかりの笑みを溢した。
新多氏に反発していた探索者たちはばつが悪そうな顔をしていた。すぐに彼らの考え方が変わるとは思えない。彼らには彼らの流儀があり、それでやってこられたのだという自負もあるはずだからだ。
だが、一度は試してみようかという空気が、生まれているようだった。
水無川さんは新多氏からパンフレットを受け取り、新多氏に何か話しかけていた。新多氏は照れくさそうにはにかみ、大げさに手を振り、水無川さんが立ち去る姿をいつまでも見つめていた。
カウンターの奥から権藤さんが出てきて、新多氏が配ろうとしていたパンフレットの束を受け取っていた。
彼だけではない。井葉さんや、北林職員も出てきて、目立つ場所へとそれを配置したり、新しくやって来た探索者へ直接、手渡ししていた。
私はその光景を静かに見ていた。
その時、新多氏がこちらに気づいた。
両手を太ももの外側に当て、姿勢を正し、深く一礼した。
私も同じく姿勢を正し、彼女へ向けて返礼した。
お互い、視線はすぐに外れた。彼女は探索者にパンフレットを配るために。私は事前審査の窓口へと向かうために。
私は事前審査の窓口へ向かい、作成した書類を提出した。
担当の職員は手際よく書類を確認し、問題なく許可証を発行してくれた。
続いて保安検査場の列に並ぶ。
荷物の照合とX線検査も、滞りなく通過した。
すべてが順調だった。
ダンジョンゲートの手前、スロープの前に立つ。
ダンジョンの匂いがする。
これまでと変わらない、死が隣り合わせの現場だ。
今日もまた、生き残るのだ。
そして、無事に地上へ帰還するのだ。
美味い、夕食を食べるために。
メニューはまだ決めていない。
冷たい麺類もいい。夏野菜を使ったスタミナ料理もいい。
帰ってきてから、ゆっくりと考えよう。
私は息を吐き出した。
今は今日の業務に集中しよう。
私は確かな足取りで、ダンジョンへと入っていった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました!
これにて第9部『探索者、その在り方』編、完結です。
第10部も楽しんでいただけるよう、全力で展開を考え、更新していきたいと思っています。
引き続き応援していただけましたらうれしいです。
よろしくお願いします。




