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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第112話:純粋な期待と、残された宿題



 私がダンジョンへ持ち込む資材のリストを申請用紙に書き込んでいた時だった。


 誰かが横に立った。


 記載台は共有で使用するものであり、探索者だと考えた。


 だが、視界の端に映ったのは、探索者ではあり得ないものだった。


 仕立ての良い、グレーのスーツ。


 そこで初めて私は顔を上げ、その誰かを見た。


 ボブカットの、まだ少し幼さを残した女性だった。それでも静河くんよりは年上なのは間違いないだろう。


 彼女は姿勢を正し、名刺を差し出してきた。


「お忙しいところ申し訳ありません! わたしは経済産業資源省の新多(にった)京香(きょうか)と申します!」


 威勢の良いというのとは少し違う、それより元気であるという方が正しい声で彼女はそう告げた。


 経済産業資源省。『アルゴス』が原因で発生したスタンピード。その調査委員会で座長を務めていた宇津木(うつぎ)理事が、経済産業資源省からの出向組だった記憶がある。


 彼の関係者か?


 だが、彼女からは、彼と近しい雰囲気は感じられない。


 むしろ、私を見る眼差しは、『蒼穹の翼』から向けられるのに似ている気がする。


 ……彼女とは間違いなく初対面なのだが。


 情報が足りない。


 何にしても、おそらく、以前、権藤さんが口にしていた国からの接触と考えるべきだろう。


 私はほんの数秒の間でそこまで考えてから、彼女が差し出していた名刺を受け取った。


「……あいにく、私にはお渡しできる名刺はありませんが」


「大丈夫です! わかっています! 本宮静河さん、ですよね!?」


 圧が強い。


 私が戸惑っていることに気づくと、彼女は咳払いをして、


「すみません」


 と頭を下げてから、こう切り出した。


「単刀直入に申し上げます。探索者の皆さんがモンスターを倒し、ダンジョンから持ち帰る魔石は、我が国にとってかけがえのない最重要資源です」


 彼女はさらに言葉を続けた。


 ダンジョンの変容が始まって以来、魔石の供給が無視できない滞りを見せ始めていること。


「原因は、多くの探索者の方々が変容に対応できずにいるからです」


 彼女の言うとおりだ。


 ある者は去り、またある者は不正な手段に訴え、強制的に排除された。


 今のダンジョンは、以前よりさらに過酷な状況にあるというべきだろう。


「ですが、そのような厳しい状況下にあっても、常に一定の結果を出し続けている方がいらっしゃいます! それが静河さん、あなたです!」


 先ほどまで取り繕っていた真面目さはすでになく、彼女は熱い眼差しで私を真っ直ぐに見つめた。


「静河さんのやり方を探索者たちのスタンダードモデルにすれば、誰もが安全に魔石を得られるようになるはずです!!」


 かつて『アルゴス』の代表である瀬能氏が私に言い放った、仕組みで市場を塗り替えるという野心とはまるで違う。


 彼女の言葉には、私を出し抜こうとする悪意も、利用して搾取しようとする打算も見当たらなかった。


 ただ純粋に、私のやり方が唯一の正解であり、それを広めることが皆にとってもいいことであると、心の底から信じ切っている響きがあった。


「どうか、お力をお貸しいただけないでしょうか……!?」


 彼女は勢いよく、そして同時に、深く頭を下げた。


 悪意ならば受け流したり、対処する方法も心得ている。


 だが、純粋な善意と期待は、正直、扱いが難しい。


 私は手元の申請用紙に視線を落とし、短く息を吐いた。


「……少し考えさせてください。今すぐにお返事できることではありませんので」


 私の答えに、新多氏は顔を上げ、花が咲くような笑みを浮かべた。


「ありがとうございます! よいお返事をお待ちしております……!!」


 彼女は再び一礼し、軽やかな足取りで去っていった。


 自然と息を吐き出しながらその後ろ姿を見送っていると、背後から騒がしい足音が近づいてきた。


「さすが師匠! 国のお役人から直々に声をかけられるなんて!」


『蒼穹の翼』のリーダー、伊織くんだった。


 他のメンバーたちも目を輝かせ、興奮を隠しきれない様子で私を囲む。


 彼らが私の周囲で騒ぎ立てる中、少し離れた場所から冷ややかな声がした。


「……静河のやり方をスタンダードモデルにする? 無理でしょ」


 水無川さんだ。


 彼女は新多氏の消えた方を見つめ、呆れたようにため息をついた。


「師匠の何が無理なんだよ!」


「……静河が無理じゃなくて、静河のやり方をスタンダードモデルにすることがよ。だってそうでしょ? 静河みたいなこと、他のみんなができると本気で思える?」


 私が行っているのは、特別なことではない。現場の微細な変化を拾い上げ、仮説と検証を繰り返しているだけ。ただの泥臭い作業の連続である。


 それを文章に落とし込んだところで、読んだ者が現場で即座に再現できるはずがない。


「がんばれば何とかなるもんだって!」


 根性論を口にする伊織くんに、『蒼穹の翼』のメンバーは同意を示したが、水無川さんは呆れたような眼差しを向けるだけだった。


 私は彼らのやり取りを眺め、微かに口元を緩めた。


 どれだけ評価されたとしても、私のやり方は、すべての探索者にとっての正解にはなり得ない。


 私のやり方を全員に押し付ければ、例えば直感を最大の武器とする颯真くんのような探索者は、その持ち味を完全に殺され、かえって命を落とすことになる。


「……ねえ、断るんでしょ?」


 水無川さんの問いかけに、私は頷いた。


「……そうですね」


 私の答えに、『蒼穹の翼』のメンバーは不満そうだったが。


「なら、あの場で断ればよかったのに」


 どうしてそうしなかったのか。水無川さんが不思議そうに首を傾げ、問いかけてくる。


「……彼女は本気で、それが可能だと信じているようでした。そんな彼女に出来ないと告げたらどうなると思いますか?」


「……信じないと思う。あと、謙遜しなくていいとか、絶対できるから大丈夫だとか、とにかく面倒くさいことになるのは間違いない」


「だからですよ。——私は探索者ですから」


 今日を生き残るために、ダンジョンに向かう。


 ダンジョンは死と隣合せの場所であり、余計なストレスは致命的なミスを生む。


 だから、今は彼女のことは脇に置き、目の前の現場に集中する。


「……確かに。探索者だもんね」


 水無川さんが頷き、伊織くんたちも同様で、私たちは意識を切り替え、事前審査と保安検査を受け、それぞれの目的のためにダンジョンへ向かった。




砂礫の迷宮(グラベル・メイズ)』にやってきた。


 細かい砂が足元を覆い、歩くたびに砂塵が舞い上がる場所だ。


 すでに変容を観測した場所でもある。


 現場に到着し、数歩進んだところで、立ち止まる。


 空気の乾燥具合と、足元の砂の沈み込み方が、私の記憶にあるデータと微妙にずれている。


 ……変容がさらに深化しているのか。


 私は安全を確保するため、岩壁に背を預ける。


 前方の砂地を注視していると、しばらくして表面が微かに盛り上がり、このエリアに生息する砂潜鋏角(サンド・アラクニド)が姿を現した。


「あれは……」


 甲殻の表面に初めて見る、不気味な突起物が付着していた。


 砂潜鋏角の甲殻が変化したものかと思ったが、よく見れば対象とは完全に独立したタイミングで蠕動している。


 ……おそらくだが、新種のモンスターが寄生していると考えた方がいいだろう。その見た目はイソギンチャクに近かった。


 しかし、この変容は予想していなかった。よくよく考えてみれば、当然、あり得る変容だというのにだ。事前の想定を甘く見積もりすぎていた。


 変容にも対応できるようになり、慢心していたのかもしれない。いや、確実にしていたのだろう。


 ……反省は、生きて宿舎に戻った時にするべきだ。


 息を短く吐き、意識を切り替える。


 対象を処理しようとするなら、従来の動きと、それとは別に、寄生モンスターによる未知の攻撃を同時に対処しなければいけない。


 ……撤退だ。


 それ以外にあり得ない。


 あるいはだからこそ挑戦するという探索者がいるかもしれないが、私は違う。私の目的は生き残ることだ。


 だが、ただ撤退はしない。


 今後、同個体と遭遇した際、あるいはまったく別の対象においても同様の現象が発生した場合、対処できずに、撤退を繰り返すことになってしまうからだ。


 攻略の糸口を掴んでおく必要がある。


 私は安全な距離を保ち、対象と寄生体の連携パターンを注視し続けた。


 対象が砂を蹴るタイミング。


 それに合わせて寄生体が蠕動し、攻撃態勢に入るまでのラグ。


 視覚情報だけでなく、砂の流動や気流の変化を五感で拾い上げ、頭の中で段取りを組み立てていく。


 深く観察し続けた結果、私の中に一つの仮説が立った。


 周囲の地形と砂の流動、自らの手持ちの資材を計算する。


 完全に安全圏へ退避できる経路は確保されている。


 ……いける。


 私はポーチから固定用金具とワイヤーを取り出した。変容した酸性粘体(アシッドスライム)を処理するために確立した手順で用いるためのものだ。


 だが、謎の劣化が発生したため、ダンジョンに持ち込む固定金具とワイヤーのメーカーは、念のために毎回、変更するようにしていた。


 私は対象の進行上にある岩壁の低い位置へ金具を噛ませ、砂の上にワイヤーを低く張った。


 そして、あえて足元の砂を軽く踏み鳴らすことで、対象の注意を引いた。


 対象が私に気づき、砂を蹴って突進してきた。


 私は斜め後方へ跳び退きながら、ワイヤーの張力を維持した。


 対象の脚がワイヤーに絡みつき、体勢を大きく崩した。


 その瞬間、寄生体が宿主の背から不規則な角度で粘液のようなものを放ってきた。


 観察で得たタイミング通りだ。


 私はさらに体を沈め、岩の陰へ転がり込むことでそれを回避する。


 対象の動きが止まったわずかな隙を突き、私はサバイバルナイフを、寄生体の基部と対象の関節を同時に貫く角度で差し込んだ。


 対象は光の粒となって霧散した。


 砂の上に落ちた魔石を、私は荒い呼吸をしながら拾い上げた。




 定時に管理協会のロビーへと戻ってきた私は、換金カウンターに魔石を置いた。


 今日の担当は井葉さんであり、彼女は魔石をテスターにかけながら私を見た。


「お疲れ様です、静河さん。……なんだか、とてもお疲れのようですね」


「今日は、少し神経を削られました」


 今回は何とか仮説を立証することができたが、余裕はまったくなかった。言うなれば、ギリギリの成功というものだろう。


 私がそう告げれば、井葉さんは困ったように笑った。


「……成功は成功だって考える方が多いと思いますよ?」


 そうかもしれない。


 だが、二つの異なる思考パターンを持つ対象を同時に相手にすることは、予測の手間を倍増させ、神経を著しく摩耗させる。


 毎回このような綱渡りの成功を強いられるのでは、帰途のことを考えれば悪手と言わざるを得ないだろう。


 今後の対応については改めて検討が必要だ。寄生モンスターを認めた時点で撤退することも含めて。


「そんなふうに考えるのは、本当に静河さんくらいだと思います」


 彼女が、私の後ろに視線を向けた。


 振り返る。


 そこには、防具はボロボロで、泥と血にまみれながらも、大声で笑い合っている探索者たちの姿があった。


「さっき、換金されていました。久しぶりにたくさんの魔石を持ち帰ることができたって。変容したダンジョンにも対応できたって」


 あれだけボロボロになりながらも無傷ということはポーションを使用したことは間違いなく、ポーションは連続して使い続けると体に抗体が生じるためにいざという時の回復効果が落ちてしまう。


 英雄を夢見る探索者にとっては一度の成功を得るためにポーションを連続使用するのは問題ないことなのかもしれないが、私にとってそれは将来に対するリスクでしかない。


 私の目的は違う。今日を生き残り、明日も、明後日も、確実な安全、余裕を保ちながら、平穏な日常を継続することだからだ。


 私は井葉さんから明細を受け取り、短く一礼して協会を後にした。




 外に出ると、夏の夕暮れが街を赤く染めていた。


 今日はまだ夕食のメニューを決めていない。


 自炊でもいいし、惣菜でもいいし、新しい店を見つけるのでもいい。


 さて、と迷いながらスーパーマーケットの前を通りかかった時、皮が張り詰めて艶やかな、見事な丸茄子が売られているのが目に留まった。


「……今日はこれにしましょう」


 メニューが決まった。


 私は丸茄子を手に取り、店の中へと入ると、精肉コーナーに向かった。




 宿舎の自室に戻り、夕食を作る。


 今日は丸茄子と豚肉の味噌炒めである。


 丸茄子は厚めの輪切り、表面に細かく格子状の切れ目を入れる。


 フライパンに普通の炒めものよりも多めの油を熱して、茄子をじっくりと揚げ焼きにしていく。果肉が油を吸い、とろりとした柔らかさになったところで一度取り出した。


 そして同じフライパンで豚バラ肉を炒め、脂の甘い香りが立ってきたところで茄子を戻す。そこに、味噌、酒、みりん、少しの砂糖を合わせたタレを回し入れた。


 焦げた味噌の香ばしい匂いが部屋中に広がった。


 皿に盛り付け、炊きたての白米とともにテーブルへ運ぶ。


 茄子と豚肉、一緒に口の中へ迎え入れる。


「……これだ」


 丸茄子を見た瞬間、思い描いたとおりの味だった。




 食事を終えた私は手帳へ視線を向けた。残された宿題がある。純粋な期待の眼差しを向けてきた新多氏への返答だ。


 お茶を飲みながら、じっくりと考えた。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

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