第111話:誰かが気づく変化と、良すぎた餃子
夏になり、朝からすでに熱を孕んだ風が吹き付けている。
私は管理協会の前で足を止めた。
視界の端に、見慣れた人影があったからだ。
颯真くんである。
彼は建物へ入らず、どこかをじっと見つめていた。
……何を見ているのだろう。
私は彼の視線の先を見た。
少年と犬が戯れていた。
犬は尻尾を激しく振り、少年の顔を舐めようと飛び跳ねている。
少年もそれに応え、首筋を激しく撫でていた。
颯真くんは、その光景を食い入るように見つめていた。
私は一度、管理協会を見上げてから、颯真くんの元へと歩み寄った。
「おはようございます、颯真くん」
私の挨拶に彼は驚いたように肩を震わせ、慌ててこちらを振り返った。
そして立っているのが私だと気づくと、どこか気恥ずかしそうに苦笑して、
「お、おう、静河か。おっす」
「何か気になるものでも?」
私が問えば、彼は頭を掻きながら、
「……前に、お袋が犬を飼いたがってるって話をしたの、覚えてるか?」
「ホームセンターへ一緒に行った時ですよね」
その時のことを思い出したのだろう。
彼は明らかに楽しげに笑って、頷いた。
「……話の流れからすると」
「ああ、飼い始めたんだよ」
彼の母親にとってみればいいことなのだろうが、彼の顔を見る限り、喜ばしいことではないようだ。
いつもどおりカフェオレだと思って口にしたコーヒーが、とてつもなく苦かったみたいな顔をしていたからだ。
「名前は楓麻って言うんだ。お袋はもちろん、親父にも、妹にも、すげえ懐いてる」
そこで颯真くんはグッと拳を握った。
「なのに、俺にだけ、全ッ然、懐かねえんだよ! 俺が近づいただけで警戒して吠えるんだぜ!? ひどくねえか!?」
「……つまり、颯真くんとしては、楓麻くんと仲良くしたいわけですね?」
「楓麻くんじゃねえ。楓麻ちゃんだ。メスだからな」
そう語る颯真くんは、楓麻ちゃんに懐かれていないというのに、彼女のことが好きで好きでたまらないといった顔をしていた。
「なあ、静河。あんなふうに仲良くするには、いったいどうすりゃいいんだ? お前ならわかるだろ!?」
……颯真くんの表情は至って真剣だった。
動物を飼育した経験は、静河くんにも、『私』にもない。
かつての後輩が犬を迎えたと嬉しそうに語っていたことは覚えているが、しかしそれだけだ。
動物の警戒心を解くための合理的な手段として、まず思いつくのは物理的な報酬の提供であり、つまり、
「………………餌、でしょうか」
私の答えに、彼は至って真剣な表情で頷いた。
「餌、餌か。確かにそうだよな。美味いもんをもらって喜ばねえやつはいねえし。……よし、やってみるか!」
颯真くんは私の肩を乱暴に叩き、
「サンキューな、静河! 助かったぜ!」
「……いえ。これに関しては私にも経験がないので、必ず効果があると断言はできません」
「あー、確かに。静河が犬とかを飼ってる姿は想像できねえもんなぁ」
彼は再び笑って、
「静河は犬とか、猫とか、動物よりも、むしろそうだな、植物……もなんか違うな。花に水を上げてる姿が似合わねえし」
颯真くんの率直な物言いに、私もさすがに苦笑する。
確かに自分でもあまり似合わないとは思うが。
「あ、これだ! 静河が何かを育てるなら、絶対これだ!」
颯真くんが破顔する。
「ぬか床! 静河の作った飯、食ったから思うんだけど。けっこう凝り性だろ、静河。だからさ。静河が育てるなら、それしかねえ!」
「……確かにぬか床も育てるとは言いますが」
「不満か?」
「いえ。自分でも、確かにそれならしっくり来ると思ってしまいました」
「だろ!?」
楽しげに颯真くんは散々笑ってから、不意に、
「……そういや静河、今日はいい表情してるな」
真っ直ぐな彼の眼差しに、私は自分の顔に触れてみた。
「そうですか?」
「ああ……いや、いつもどおり、か? ……なんか吹っ切れたような感じというか。……でも、んー、今までどおりのような感じもするな。……どっちだ?」
「私に聞かれても困ります」
「だよな。悪い」
鈴沢医師によって生じた輪郭の曖昧さを、昨日、ようやく払拭することができたのは確かだ。
静河くんでもなく。
かつての『私』でもない。
ただ、今、この場所で必死に生き残ろうと足掻いている人間である、と。
これまで積み重ねてきたことを、ただこれからも積み重ねていけばいい。それで充分なのだ、と。
「まあ、なんだ。とにかくいい顔してるのは確かだ」
いこうぜ、とそう颯真くんに促され、私たちは並んで管理協会の自動ドアをくぐった。
ロビーは、新体制導入による煩雑な手続きに追われる探索者たちで未だにごった返していた。
私たちは記載台へ向かい、協会が用意した申請用紙を手に取る。
私は持ち込む資材のリストと成分データシートの記入を滞りなく進めていく。
隣を見れば、颯真くんは相変わらずペンの進みが遅く、眉間に深い皺を寄せて書類と格闘していた。
「では、私は」
書き終えた私は、先に行くことを告げた。
「相変わらず、できる男は違うな」
彼の言葉に短く会釈し、事前審査の窓口へ向かおうとした。
その時、別の記載台で、颯真くんと同じように書類に四苦八苦している数人のグループが目に入った。
『赤き戦斧』のメンバーたちだった。
彼らの傍らには、普段見慣れない真新しい資材がいくつか置かれていた。
ペンの後ろで額をつついていたリーダーが顔を上げ、私に気づいた。
「よう、静河」
私は彼に近づき、
「昨日はありがとうございました。助かりました」
礼を述べた。
昨日、私が致命的なミスを犯した際、彼らが飛び込んできてくれなければ、私は今、ここに立っていない。
「天気予報じゃ、槍が降るって言ってたような気がするが、降らなかったな?」
リーダーの返事に、私は小さく苦笑した。
「お前はいつもどおり、完璧に書類を仕上げたんだろ?」
「……完璧かどうかはわかりませんが、問題はないと思います」
また、南塚原のような人物が現れれば別かもしれないが。
「みなさんもこれまでは特に問題にしていなかったように感じていたのですが」
「これまでと一緒ならな」
「というと?」
「……これまでどおりじゃ駄目だと思ったのさ、俺たちも」
リーダーの言葉に、メンバーがこちらを見て、真剣な顔で頷いていた。
「だからよ、いろいろと試してみようと、今回、新しい資材を持ち込もうと思ってんだが、……この成分データの書き方がどうにも通らなくてよ」
彼は大げさに肩をすくめて見せた。
「ちょっといいですか」
と断りを入れてから、私は彼の傍らにある資材を確認した。
それは耐熱性の特殊な塗料と、環境変化を測定するための小型のプローブだった。
私は彼を見て告げた。
「環境への影響を記載する欄に、揮発性がなく、岩盤へ浸透しないことを明記する必要があります。加えて、回収の手順として、使用後に物理的に剥がし取り、密閉容器で持ち帰ることを明記すれば、審査は通ります」
リーダーは呆気にとられたような顔で私をしばらく見た。
そして、言った。
「……お前、静河、いったいどういう風の吹き回しだ?」
「昨日、助けていただきました。借りがあります」
私の言葉に、彼は眉間に皺を寄せ、考える顔をする。
メンバーはそんな彼の様子を黙って窺っていた。
助けられたことだけが借りではない。
彼が倒したモンスターの魔石を、彼は回収していかなかった。
先に相対していたのは私だからと彼は考えたのかもしれないが、止めを刺したのが彼である以上、あの魔石は彼が回収するべきだったのだ。
「……わかった」
「……では」
一礼し、立ち去ろうとした私を、彼が呼び止める。
「待て、静河」
私が振り返れば、
「それじゃあ、今度、飯を奢らせろ」
「いえ、それでは——」
私が断ろうとすれば、彼は意地悪く笑った。
「うるせえ。文句はなしだ。いいな、オークスレイヤー様よ」
意地悪い笑みの中には、梃子でも動かない、強固な意思があった。
「……その呼び方は」
「おっと、書類を書かねえとな」
リーダーは、今度は快活に笑い、書類仕事に戻る。
他のメンバーが苦笑いしながら、頭を下げるのを見て、私は小さく息を吐き出すに留めた。
「……静河も変わったよな」
私と『赤き戦斧』がやり取りしている間に、颯真くんは書類を書き終えたらしい。
私の隣に立ち、そう言った。
「…………そうですね」
私は素直に肯定した。
静河くんになったばかりの頃ならば、誰かとこのようなやり取りをすることはなかっただろうし、このような未来が来るとは想像もできなかった。
『赤き戦斧』も、颯真くんも、そして私も、無事に事前検査と保安検査をクリアした。
ダンジョンの中に入り、そして、
「またな」
互いに短い言葉を交わして、それぞれの目的地へと向かっていった。
本日の私の目的地は『霧骨の沼地』。
以前、私はここで結晶質の装甲で覆われた変容個体に遭遇し、バックパックを命の対価として犠牲にすることで、何とか撤退することができた。
再挑戦という意図はない。
ただ、今回、変容個体対策を構築することができたので、やってきたのだ。
その対策とは、私の前方にある、平坦な岩盤の上にあった。
摩擦係数を極限まで低下させた、特殊樹脂シートである。
岩盤上にそれを敷き、四隅を鉄の楔でしっかりと固定した。
対象の進入経路の摩擦をゼロに近づけることで、対象の運動制御を奪い、処理するのである。
頭の中では、すでに何百回近く、手順を繰り返してきた。
そのとおりにいく場合もあるし、いかない場合もある。
いや、むしろ、いかない場合の方が、圧倒的に多い。
それでも諦めるつもりはない。
試行錯誤を何度も繰り返して、手順を構築するのだ。
泥臭く、他の誰かが見れば、馬鹿だと、愚か者だと笑うかもしれない。
まったく構わない。
ここで生きていくと、生き残っていくと決めたのだ。
視界を白く塗り潰す濃霧の中で視覚を確保するため、私は樹脂シートを固定したのとは別の、泥に沈まない平坦な岩盤を見つけ出し、再調達してきたジンバル式のレーザー墨出し器をセットした。
高輝度の緑色のレーザーが全方位に照射され、濃霧の中に立体的な光の格子を浮かび上がらせた。
私はシートの奥、強固な岩壁を背にする位置に立った。
自らを確実な囮とし、対象の突進軌道をこのシートの直上に限定させる。
私は足元から手頃な石を拾い上げ、あえて自身の少し前方の泥へ向かって強く投げつけた。
泥が跳ねる重い音が、濃霧の中に響く。
前方の光の格子が不自然に歪んだ。
音に反応した対象の輪郭が、緑色の線で縁取られる。
霧隠鰐の変容個体だ。
獲物の座標を正確に認識した対象が泥を跳ね上げ、私に向かって凄まじい速度で跳躍してきた。
迫り来る対象の正確な軌道をレーザーの格子で完全に見極める。
ギリギリまで引き付け、私は横へ動いた。
対象の強靭な四肢が、固定された特殊樹脂シートへと着地する。
その瞬間、対象の爪は岩盤を捉えられず駆動力を完全に失い、巨体は一切の制動が効かないまま、恐るべき慣性エネルギーを維持して前方に滑走した。
その先にあるのは、強固な岩壁だ。
制御を失った対象の頭部が、凄まじい質量とともに岩壁へと正面から激突した。
透明な結晶質装甲は、硬度こそ高いものの、粘りがなかったのだろう。
衝撃を吸収しきれず、激しい破砕音とともに網の目のような亀裂を走らせて砕け散った。
致命的な打撃を受けた対象はもはや暴れるどころか、けいれん一つ起こさずその場に完全に倒れるだけだった。
……油断を誘っているという可能性も排除しきれない。
私は安全マージンを確保し、念のため、対象に向かって石を投げる。
……反応なし。
それでも私は油断することなく、最大限、慎重に、緊張しながら、動かなくなった巨体へと近づく。
そして、装甲の剥がれ落ちた無防備な頸部の割れ目へ向け、サバイバルナイフを突き立てた。
刃が組織の深部へ到達。
対象は光の粒となって霧散し、泥の上に落ちた魔石を私は拾い上げる。
胸の奥に静かな熱が灯る。
あの日、私はバックパックを失いはしたが、命を護ることができた。
そして今日、事前の対策が完全に機能した。
樹脂シートを確認すれば、特に問題はないように思える。
だが、それは、まだ問題が発生していないというだけで、いつまでこの新しい手順が通用するかは、まったくの未知数だ。
それでもいい。
その時が来たら、また対処すればいいのだ。
何度だって。
生きている限り、それができる。
付近に新しい対象はいないようだ。
だが、定時まで、時間はまだある。
次の対象が現れるまで、私は待った。
定時になった。
予定通りのノルマを達成することができた。
固定した樹脂シートは取り外し、充実した疲れを感じながら、私は地上へと帰還した。
管理協会のロビーで換金カウンターに魔石を提出し、明細を受け取る。
提示された金額は、私が計算していた通りのものだった。
宿舎に戻ってきた私は、装備の清掃と手入れを終えてから、キッチンに立った。
今日は餃子である。
そういう気分だったのだ。
キャベツとニラを細かく刻み、挽肉と合わせてよく練り込む。
調味料に加え、オイスターソースと鶏ガラスープの素を入れ、粘り気が出るまで混ぜ合わせた後、一つずつ包んでいく。
フライパンに油を引き、餃子を並べて火にかける。
底に焼き色がつくのを確認してから水を注ぎ、蓋をして蒸し焼きにする。
最後、ごま油を少し垂らして仕上げである。
皿に盛り付け、ポン酢にごま油を合わせたタレの入った小皿とともにテーブルへ運んだ。
箸で熱い餃子をつまみ、タレにつける。
噛みしめると、熱い肉汁とたまらない旨味が口の中に溢れ出した。
「……ああ、美味い」
餃子を食べながら、明日の現場の段取りを頭の中で組み立てようとも思ったが、今日の餃子は、そうするにはあまりにも出来が良すぎた。
今はただ、餃子を満喫しよう。
この時間は、それが許されるのだから。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
もし少しでも『面白い』『続きが気になる』と思っていただけましたら、
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また、誤字脱字の報告、助かっています。
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