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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第110話:未完成のハンバーグと、今の自分



 前日、水無川さんとともに変容に対処した。


 普段の私ならば、あり得ない行動だ。


 なぜ、そのような行動を取ったのだろう。


 考えた時、一つの事実が浮かび上がった。


 鈴沢医師の言葉が、胸の奥でずっと燻っていたからかもしれない。


 ——本当に君は、本宮静河くんなのかなあ。


 ……私は静河くんではない。


 だが、かつての『私』であるかと言えば、それも違うと感じる。


「……なら、今の私は——」




 保安検査場の列に、私は並んでいた。


 私の番が来て、トレイにバックパックを置き、必要書類を差し出した。


 対応したのは北林という名の保安職員だった。


 彼は手際よく書類と荷物を照合していたが、その手が止まった。


 不思議に思い、彼を見れば、彼も私を見ていた。


「……何か?」


「少し、顔色が優れないようですが。何か懸念事項でも?」


 彼の目は、職務上の確認というよりは、現場に向かう人間を気遣う温度を持っていた。


「……問題ありません」


「……そうですか」


 彼が差し出す許可証を受け取り、私は一礼してゲートを抜け、ダンジョンへ足を踏み入れた。




 向かったのは『灰晶の枯川(アッシュ・ワジ)』だ。


 昨日、水無川さんとともに対処した場所である。


 一人で対処するための方策を、昨夜のうちに頭の中で組み上げてきている。


 ……今もまだ、燻り続ける鈴沢医師の言葉は忘れよう。


 私は息を吐き出し、意識を現場へと切り替えた。


 ——そのはずだった。




 鋭利な灰色の結晶が無数に群生している荒涼とした地形。


 極度に乾燥した空気がその結晶の間を抜け、微かな摩擦音を絶えず響かせている。


 私は岩壁に沿って進みながら、エリア内に潜む対象の気配を探った。


 その時、視界の端で、灰色の砂岩と結晶が不自然に隆起した。


 このエリア特有の環境と完全に同化し、全身を硬質な灰色の外骨格で覆った大型の昆虫系モンスター、灰砂跳虫(アッシュ・ジャンパー)だった。


 対象は発達した後脚を使い、直進ではなく斜めへと不規則に跳躍する。


 それは変容前にはなかった行動だ。


 昨日は水無川さんがあえて対象の正面に立ち、


『静河、今……!』


 と、その注意を引きつけることで跳躍の起点と方向を絞り込み、私が側面から回り込んで処理するという連携で切り抜けた。


 示し合わせたわけではない。


 撤退を考えていた私に、それでも彼女は咄嗟にそのような行動を取って、気がつけば私は彼女のそれに応えていた。


 今日は一人で、陽動役はいない。


 だが、問題はない。方策は構築してきた。


 岩壁と鋭利な結晶の群生地を利用し、対象を岩壁の角へと誘導する。


 そうすることで、対象が跳躍できる角度を物理的に一方向に限定させるのだ。


 そして、死角へ回り込んでサバイバルナイフで処理をする。


 問題はない。


 私が踏み込み、対象が砂を蹴って跳躍する。


 予測通りの軌道。


 だが、死角へ回り込もうとしたその瞬間、意識から締め出したはずのものが脳裏をかすめたのだ。


 ……本当に君は——。


 たかが、コンマ数秒の遅れであっても、現場では致命的なミスとなることを、私は知っていた。


 対象の前肢が迫る。


 回避する猶予はない。


 諦めない——だが、何ができる?


 その時、何かが横から現れ、対象を撥ね飛ばした。


 対象は壁に叩きつけられ、光の粒となって霧散した。


 床に転がり落ちる魔石を呆然と眺めていたら、


「危ねえところだったな」


 聞き覚えのある声に見れば、『赤き戦斧』のリーダーだった。


 彼の背後には、パーティーのメンバーたちが武器を構えて立っていた。


 彼が現れなかったら、今ごろ私は——。


「……助かりました」


 激しい鼓動を感じながら短く礼を告げると、彼は肩に長剣を担ぎ、首をひねった。


「お前がこんなミスをするなんてな。明日、槍でも降るんじゃねえか?」


 その後ろにいたメンバーの一人が、大きく息を吐き出して言った。


「でも、なんか、ほっとしたかな」


「……それはどういう意味ですか?」


 私がミスをして、ほっとする。


 その理由を尋ねれば、彼は慌てたように手を振り、


「ごめんなさい! 深い意味はないんです! ただ、静河さんもミスをするんだなって。別にロボットとか、機械とか、そんなふうには思ってはいないんですよ!? 本当に! でも、静河さんはいつだって、どんな時だって完璧だったから」


 ……完璧。


「そんなことはありません。私はいつだって、生き残るために、自分にできることを必死にやっているだけです」


「そう、なんですか……?」


 納得がいかない、そんな感じで彼が首を傾げた。


 だが、誰かに向けた言葉にして、私はわかったような気がした。


 私は静河くんではない。


 かといって、かつて泥を啜るような納期をくぐり抜けた『私』でもない。


 今の私は、このダンジョンという現場で生きることに必死になっている、ただ一人の人間だ。


「次からは気をつけろよ、オークスレイヤー」


「その呼び方はやめていただきたいと言ったはずですが」


「そうだったか?」


 笑いながらそう告げるリーダーを先頭に、『赤き戦斧』は別の通路へと向かっていった。


 その時、彼らが倒したモンスターの魔石を拾っていかなかったことに気がついた。


「……いろいろと借りができてしまいましたね」


 私は拾い上げた魔石をケースに収めた。


 燻りはもうない。


 残りの目標数を、私は構築した方策を実行に移し、成功させた。


 当初の予定していたノルマを達成することができた。




 協会からの帰り道、私はスーパーマーケットに立ち寄った。


 今日の夕食のための買い出しだ。


『ごはん処 ふたば』で食べた、あのデミグラスソースのハンバーグに再挑戦する。


 前回足りなかったビターなコクと甘み。


 その正体である隠し味であるチョコレートを調達するため、私は菓子類の並ぶ通路へと足を運んだ。


 棚の前に立ち、チョコレートの種類の多さに、私は迷った。


 カカオの含有量、甘さの度合い、香りの違い。


 ……どれを選ぶべきか。


 だが、その迷っている時間が、今の私には心地よいと感じられた。


 自分の生活を豊かにするための、ささやかな試行錯誤。


 私はカカオ成分が高めの、ブラックチョコレートを手に取り、カゴに入れた。




 宿舎の自室に戻り、装備の保守を終えてからキッチンに立つ。


 合い挽き肉をこねて空気を抜き、形を整えてフライパンで焼き上げる。


 肉汁を内部に閉じ込めたところで、ソースだ。


 赤ワインの代用品となる調味料を合わせ、そこに今日買ってきたブラックチョコレートを一欠片、細かく刻んで投入した。


 ソースに深い艶と香ばしい匂いが加わった。


 完成したハンバーグを皿に盛り、炊きたてのご飯とともにテーブルへ運んだ。


『ごはん処 ふたば』のやり方に合わせて箸でハンバーグを割り、ソースをたっぷりと絡めて口へ運ぶ。


 肉の旨味の奥に、チョコレートがもたらした微かな苦味とコクが感じられる。


「……美味い」


 前回より、あの味に近くなったような気がするが、まだまだだ。


 ……それは私自身も同じだ。


 鈴沢医師の言葉に翻弄され、あり得ない、しかも致命的なミスをしてしまった。


 失敗は許される。


 大事なのは、


「……同じ失敗を繰り返さないこと」


 私は、まだまだ未完成のハンバーグをゆっくりと完食した。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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