第109話:問われる輪郭と、隠し味のビター
特異地下資源管理協会のロビーの隅に設置された記載台で、私は事前審査を受けるために必要な申請書類を記入していた。
「おっす、静河」
気さくな呼びかけに振り向けば、大剣を背負った颯真くんだった。
彼が差し出している缶コーヒーを受け取り、
「おはようございます」
と私は答えた。
「静河はもう受けたか? あの健康診断」
颯真くんは、自分の分であるカフェオレに口をつけながら、聞いてきた。
健康診断。
ダンジョン特別管理法によって、探索者に義務付けられた定期検診ものである。
「先日、事前審査の窓口で結果が未提出だと指摘されまして」
受けてきました、と応えれば、颯真くんは記載台に肘を乗せ、私の方に身を乗り出してきた。
「俺はよ、健康診断って言われてたから、てっきり身体機能を調べるもんだとばかり思ってたんだよ」
「私もです。ですが、違いましたね」
「ああ、全然違ったから驚いたぜ」
颯真くんが苦笑しながら頭を掻く。
彼の言う通りだ。
協会から健康診断を受けるに当たって指定された病院は複数あって、私はそのうちの一つに向かった。
宿舎から近かったというのが、そこを選んだ理由だった。
そして、そこで行われたのは、いわゆる一般的な身体的な検査などではなく、精神科医との面談だったのである。
なぜと思ったのは一瞬で、すぐに理解した。
変容し続けるダンジョンに対応できなかった探索者が精神的に追い詰められた結果、化学物質をダンジョンに使用し、スタンピードを引き起こしてしまった。
その事実を考えれば、国が探索者の身体面ではなく、メンタル面の管理を重視するのは、当然の措置だと言えた。
彼とて、まともな精神状態であれば、自らの働く現場を破壊するような真似はしなかったはずだ。
変容が発生してさえいなければ、彼は充分、優秀な探索者だったのだから。
私は精神科医と面談した時のことを思い出した。
担当した精神科医は、鈴沢一と名乗った。
男性であることは間違いなく、本人も認めていたが、それでも中性的であり、かなりの美貌の持ち主だった。
腰まで届きそうなほど長い黒髪をポニーテールにしていることも、その印象に拍車をかけていた。
ちなみに、髪を結んでいたのは、鈴のついたリボンだった。
彼の苗字が鈴沢であることと関係あるのかどうかはわからない。
普通に動けば鈴が鳴ってうるさいはずなのだが、彼は一切音を立てなかった。
私が不思議そうに見ていたことに気づき、
「ああ、これ? 鳴らさないようにするね、コツがあるんだよ」
そう言って彼は柔和な笑みを浮かべた。
「さて、面談を始める前に、言っておかないとね。今回のこの面談内容が国に報告されるようなことはないからね。国が知るのは判定結果だけ。医師には患者に関する守秘義務があるから。そこは安心してほしい」
そう言って、彼は面談を始めた。
面談の内容は普通だった。
事前に記入するように言われた、睡眠や食欲、飲酒、気分に関するチェックシートを見ながらのものだ。
だが、それを行う鈴沢医師の態度がおかしかった。
面談を始めると告げると同時に、彼は指先で器用にボールペンを回し始めたのである。
製薬会社の名前が入った試供品のペンだ。
回転は高速で、指の間に吸い付いているかのように全く乱れない。
回転し続けるペンを見ていれば、彼は私の視線に気づいたはずだ。
だが、彼は何も言わなかった。
鈴の音がなぜしないのかは、尋ねてもいないのに教えてくれたというのに。
これに関しては、何もいうつもりはないということなのだろう。
気にならないと言ったら嘘になるが、癖か、あるいは面談を行う時の、彼のルーティンなのかもしれないと納得する。
「じゃあ、次は……そうだね。仕事への意欲はどうかな?」
彼の質問に、私は、本宮静河としての現在の事実のみを答えていった。
「ストレスはどんなふうに対処している? 支えてくれる人は? いるかい?」
嘘ではない。
だが、かつての『私』については、一切触れなかった。
彼は相変わらずペンを高速で回し続けながら言った。
「うん、じゃあ、死にたいと思うことは?」
直球の問いだった。
「あり得ません」
『私』自身の死を一回。静河くんのそれも含めれば、二度も経験している私にとって、今のこの状況で、そのようなことを思うわけがなかった。
「あり得ない、ときたか」
「ええ。今の私は……そうですね。今日の夕食の献立を考える方が忙しいので」
これもまた、嘘ではなかった。
「なるほど。夕食のメニューか」
鈴沢医師の目が輝く。
「聞いてもいいかな? ちなみに今夜は何にするのかな?」
「面談と関係のある質問でしょうか」
私が尋ねれば、
「ううん。純粋な好奇心だね!」
彼は屈託なく笑った。
その笑みに毒気を抜かれた私が、
「スーパーで特売だった鶏肉を照り焼にするつもりです」
そう告げれば、彼は、ほほう、と息を吐き、背もたれに深く体重を預けた。
「……うん、満点だ」
そう言ってから、鈴沢医師は中空をしばらく見つめてから、続けた。
「……つまらないなあ、君」
医師とは思えない発言である。
肉体と精神がアンバランスなんだよね、とそう呟いた彼の手元を見れば、いつの間にかペンの動きが止まっていた。
彼は相変わらず中空を見たまま、呟くように言った。
「……本当に君は、本宮静河くんなのかなあ」
その瞬間、私は息を呑んだ。
心臓を冷たい手で撫でられたみたいな感覚に襲われる。
何も言えず、何も考えられず、ただ、彼を見ることだけしかできなかった。
永遠のように感じる、一分にも満たない時間が経過して。
気がついた時には、彼は再び高速でペンを回転させていた。
「はい、終わり。お疲れ様でした。夕食、鶏肉の照り焼だっけ。美味しくできるといいね」
そう告げた彼の顔には、先ほどみた屈託のない笑みがあるだけだった。
先ほどの問いを求めるような色は、微塵も感じられなかった。
「おい、静河、どうした? 大丈夫か?」
颯真くんの声によって、私の意識は引き戻された。
「なんだか顔色が悪いような気がするが」
「……いえ、大丈夫です。問題ありません」
「まあ、お前がそういうならそうなんだろうよ」
彼の私に対する全幅の信頼が、普段ならば心の奥に熱が灯るというのに、今はただ消化不良を起こしたみたいになっていた。
颯真くんはニッカリ笑うと、カフェオレを飲みきった。
「んじゃ、さっそく書類仕事に取り掛かるか」
相変わらず苦手なんだよなあ、と呟く彼をその場に残し、
「……では、私は終わりましたので」
「おう。またな、相棒」
颯真くんが拳を向けてくる。
私は一瞬だけ躊躇し、だが、自身のそれを重ねた。
「……ええ、また」
私は事前審査の窓口へと向かい、許可証を受け取った。
そして、そのまま準備広場を抜け、保安検査を受け、ダンジョンへ入った。
本日の業務は『灰晶の枯川』で行った。
環境とモンスターに発生していた変容は、事前に想定していたどのパターンにも該当せず、撤退を判断しようとしていたが、偶然居合わせた水無川さんと結果的に力を合わせて対処することができた。
対処できたこと自体は喜ばしいことではあったが、一人で対処できないのは問題である。
今後の課題として持ち帰ることにすれば、水無川さんは呆れたように言っていた。
「ねえ、静河。結果オーライって言葉、知らないの?」
と。
換金を終えて管理協会を出れば、夏を感じさせる、湿気を帯びたぬるい風が吹いていた。
面談を行った日の夜、私は鈴沢医師に告げた通り、鶏肉の照り焼を作り、夕食とした。
鶏肉の焼き加減も、タレの比率も完璧だったはずなのに、何故か美味いと感じなかった。
あの日からずっとそうだ。
何を食べても美味くない。
それでも栄養は取れているので問題はないはずだ。
しかし、いつまでもこのようなことが続くのは避けたかった。
だから今日、私は『ごはん処 ふたば』に行くことにした。
あのあたたかい味ならば、きっと——。
『ごはん処 ふたば』の引き戸を開ければ、そこには香ばしい匂いとあたたかな空気があった。
入ってきた私に、
「いらっしゃいませ、静河さん!」
と、厨房からは姉の梅村香純さんが。
そして、フロアからは妹の梅村純恋さんが声をかけてくれた。
純恋さんにカウンター席に案内され、
「はい、メニューです!」
と、手織りの布で装丁されたB5サイズのバインダーを手渡されたが、
「今日は『お父さんのレシピのデミハンバーグ定食』をお願いします」
と渡されたそれを開くことなく、告げた。
「あと、シフォンケーキも」
「はい! 今日『の』シフォンケーキもばっちりおいしいですから!」
純恋さんは笑顔でそう言うと、香純さんにオーダーを告げに行った。
そして、ほうじ茶をお盆に載せて戻ってきて、私の前に置いていった。
私はほうじ茶の入った湯呑みを手に、店内を見回す。
常連の佐伯氏をはじめとする数人の客がいて、いつものように美味い店の話で盛り上がっていた。
私はそれを聞きながら、注文したものが届くのを待った。
「お待たせしました! お父さんのデミハンバーグです!」
純恋さんが、私の前に置いた。
琥珀色のデミグラスソースが、ハンバーグの表面で艶やかに光っている。
箸を入れれば、閉じ込められていた肉汁がじわりと溢れ出した。
その時、常連の佐伯氏がこちらを向いて言った。
「ああ、そう言えば、静河さん。『そば吉』に行ったんだって?」
私は箸を止めた。
「……なぜそれを?」
私が問えば、彼は少し得意げに笑って「秘密なんだなぁ、これが」と言った。
直後、厨房から香純さんが顔をのぞかせ言った。
「『そば吉』のご主人と佐伯さんがお友だちだからですよね?」
あっさりとネタばらしをされた佐伯氏は、バツの悪そうな顔をして頭を掻いた。
そして誤魔化すように笑うと、
「静河さんはどう? 美味しい店、知ってる?」
と聞いてきた。
「……もっぱら自炊ですので、店にはあまり詳しくありません」
私が正直に答えれば、佐伯さんは驚き、いや、佐伯さんだけでなくまだ顔をのぞかせていた香純さんも驚いたように目を丸くしていた。
私は手元のハンバーグに視線を落とし、以前、この味を自室で再現しようとして届かなかったことを告げた。
酸味と苦味のバランス、あの深いコクの正体がどうしてもわからなかったのだと。
私の話を聞いた香純さんが、少しだけ得意げに言った。
「お父さんの自慢のレシピですから」
彼女は誇らしげに胸を張り、それから妹の純恋さんがやってきて教えてくれた。
「実はですね、チョコが隠し味なんですよ」
……カカオの苦味と油脂のコク。
なるほど。それは私の手札にはなかった発想だった。
「お父さんが、私とお姉ちゃんの大好きなチョコを使ったハンバーグを作ってくれたのが最初だったんです」
純恋さんは懐かしそうに微笑んだ。
「……大事な秘密だったのでは?」
私が香純さんに問えば、彼女は笑っていた。
「大丈夫です。チョコを入れること自体、隠し味としてよくあることですから。ただ、分量は秘密です」
「秘密で〜す」
姉妹は顔を見合わせ、いたずらっぽく笑った。
店内のあたたかな空気に触れながら、私は改めてハンバーグを、ソースをたっぷりと絡めて口に運んだ。
言われてみなければ気づかない、ソースの奥底に潜むビターなコクと微かな甘み。
家族のために作られた味。
「……美味い」
自然と言葉が溢れていた。
みんなが笑っている。
私も自然と笑みになっていた。
気がつけばデミハンバーグを完食していた。
純恋さんがシフォンケーキを運んでくる。
「今日も綺麗に完食ですね!」
「……ええ、本当に美味しかったです」
「だって、お姉ちゃん!」
純恋さんが厨房に呼びかければ、
「いちいち言わなくていいの!」
という声とともに、
「ありがとうございます!」
という嬉しさを隠さない声もやってきた。
「で、静河さん。どうです? 再現できそうですか?」
純恋さんが聞いてくる。
「……やりがいはあるな、と思います」
私がそう返せば、彼女は再び厨房に向かって、
「だって、お姉ちゃん!」
と先ほどのように呼びかけ、
「だから、もう!」
と怒ったような、呆れたような声が返ってきて、だが、今度は声だけではなく、香純さんが顔をのぞかせ、
「では、完成したら教えてくださいね!」
そう言った。
「はい」
隠し味の存在を知ることができた。
再現することは、できると思う。
だがきっとそれは、ここで食べたのとまったく同じにはならないだろう。
香純さんがプロで、私が素人だからではない。
この味は、ここにあるあたたかさも含めての味だと、そう考えるからだった。
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