第108話:不完全燃焼の処理と、至福の一皿
今日は2話更新しています。
こちらは本編の続きです。
管理協会の保安検査のゲート前で、探索者たちが大規模なボイコットを起こしてから、数日が経っていた。
制度そのものが撤回されたわけではなく、事前の書類審査と持ち込み資材の制限は継続されており、探索者たちは列に並ぶことを余儀なくされている。
「だから! この成分データはメーカーの公式サイトからダウンロードしたもんだって言っているだろ!?」
「申し訳ありませんが、書式が規定と異なりますので、再提出をお願いします」
あちこちの事前検査の窓口で、探索者と職員の衝突が繰り広げられていた。
一部の職員は、反抗的な探索者たちの態度に明確に不快感を表し、ことさらに高圧的な言動をとる者もいた。
「っ、いい加減にしろっ! お前たち探索者は、規則を守るという気持ちが微塵もないのか……!?」
ある職員が声を荒らげたその時、
「やめないか」
北林という名の職員が現れた。
「我々の仕事は規定に従って検査をし、現場の稼働を維持することであって、無意味に威圧して混乱を招くことではないはずだ」
高圧的な態度をとった職員の肩を掴み、低く、だがはっきりと窘めた。
「そ、それはそうですが……しかし」
「しかし? 何だ?」
「…………い、いえ、何でもありません。申し訳ありませんでした」
謝罪された北林はため息を吐き出した。
「……謝罪する相手が違うだろう」
北林に言われた職員は不満を隠しているつもりで、まったく隠せていない態度で、対応していた探索者に頭を下げていた。
再びため息を吐き出す北林。
今回の爆発は、未然に防がれたと言ってもいいだろう。
だが、それは今だけ、今回だけかもしれない。
職員は不満を隠せていないし、探索者たちは不信感をそもそも隠していない。
両者の間には深い溝が刻まれており、一朝一夕で、それが埋まるとは、とてもではないが思えない。
保安検査の列に並んでいた私はその光景を見ていたが、自分の順番が来たために視線を外し、バックパックをトレイに置いて書類を担当職員に手渡した。
担当職員は私を見て気まずそうな表情をしたが、すぐに書類と荷物を照合して、許可証を手渡してきた。
私はそれを受け取り、一礼すると、静かにゲートを通り抜けた。
奥へ深くへとルートを進み、環境の異なる分岐点をいくつも越えた先で、私は足を止めた。
防塵用マスクを装着しながら、このエリア特有の乾燥した空気と、確かな熱気を感じ取る。
『灼岩の断層』。
剥き出しの赤茶けた岩肌が続き、所々に走る亀裂の奥には赤熱したマグマの光が見える。
空間全体が陽炎で揺らめく、火属性のモンスターが主に出現するエリアである。
ダンジョンが変容を始める前、私はここで安定的に業務を行っていた。
このエリアに生息するモンスターは、熱溜山猫。
対象は火炎を吐き出して攻撃してくるのだが、その際には必ず喉元を大きく膨らませる予備動作があり、さらには直後に生じる数秒間の硬直というものが存在していた。
その隙を突くことで、無傷かつ確実に魔石を回収できていた。
だが、変容が始まった今はどうだろうか。
久しぶりに訪れたが、環境、それにモンスターにも、変容が発生していると考えて、慎重に対処した方がいいだろう。
私は防塵用マスクの装着具合を改めて確かめてから、五感を限界まで広げながら、すべてを初めて遭遇する未知の現場として踏み出した。
私以外に探索者の姿は見えない。
その分、ノイズが少なくて済むのは助かった。
「……これは」
前方の岩の裂け目から、低い排気音のようなものが聞こえてきた。
岩肌の色彩に擬態した、赤黒い斑紋の獣毛を持つ、熱溜山猫だ。
私は岩陰に身を隠し、対象の挙動を観察する。
対象が私に気づいたのか、背を弓なりに反らせて威嚇の姿勢をとった。
私は息を殺した。
だが、対象は口を開かなかった。
おかしい、と思った時、対象の胸部から腹部にかけて存在する複数のスリット状の器官が、異常なほど大きく開いた。
周囲の空気が、猛烈にそのスリットへと吸い込まれていく。
直後、対象の全身の獣毛が逆立ち、スリットから超高温の高圧な熱風が全方位に向けて噴射された。
周囲の岩盤が熱波を受け、表面が脆く崩れ落ちる。
「……なるほど」
私は岩の影で熱波をやり過ごし、対象の変容を考察した。
口からの直線的な火炎ではなく、周囲の酸素を急激に取り込んで、スリットから全方位へと熱風を爆発させる、全周囲攻撃への変化。
私の主武器であるサバイバルナイフの間合いに近づくことすら、今のままでは不可能である。
撤退、という選択肢が頭をよぎった。
今日は、対象がどのような変容をしたのか、そのデータを得ることはできた。
持ち帰って分析し、対応策を講じて、後日、対処すればいい。
……だが、その前に、対象の攻撃プロセスで、気になることがあった。
変容がもたらした、全方位の熱風による攻撃は確かに脅威的だ。
しかし、そのためには事前の大量の酸素吸入が必要であり、それを外部から強制的に阻害することができれば——。
その瞬間、対象が硬直していた事実も忘れてはならない。
私はバックパックのサイドポケットから、水が入ったペットボトル、さらに布片を取り出した。
布片にボトルから水をたっぷりと含ませ、滴るほどに濡らした。
……準備は整った。
私は息を殺し、その瞬間を待った。
対象が周囲を警戒し、再び胸部のスリットを大きく開いて空気を猛烈な勢いで吸い込み始めた。
——今だ。
私は岩陰から半身を乗り出すと、水を含んで重くなった布片を対象の開かれたスリットへ向けて投げつけた。
濡れた布片が吸気の気流に引き寄せられ、対象のスリットを塞ぐように張り付いた。
酸素の供給が突如として絶たれた。
それと同時に、高熱の器官に水分が直接触れたことで、急激な水蒸気が発生した。
対象の体内で不完全燃焼が起こったのか、黒い煙が獣毛の隙間から噴き出してくる。
敵を倒すための熱風を放出できず、対象は激しく痙攣してその場に倒れた。
光になって霧散していない以上、対象が生きていることは間違いない。
私は対象の動きが完全に止まっていることを視認し、岩陰から飛び出した。
サバイバルナイフを、無防備に晒された急所へと突き立てた。
あとには、赤く透き通った魔石が一つ。
私はそれを拾い上げた。
手持ちの資材と現場の環境、そして対象自身の特性を掛け合わせることで、新しい手順を構築できた。
私はその後も同じ手順を慎重に反復し、数体を処理したところで足を止めた。
岩陰に身を隠しながら、新しいペットボトルの水を飲む。
熱気と極度の集中により、予想以上に疲労が蓄積しているのがわかった。
新たな手順が通用したという手応えは確かにある。
だが、その手応えに酔いしれることは、自らの目を曇らせる一番の毒だ。
かつての『私』は、一つの成功体験に固執し、周囲の状況変化を見落として取り返しのつかないミスを犯した者たちを数え切れないほど見てきた。
いや、他人事のように言っているが、私自身もそうなりかけたことがある。
この現場——ダンジョンでは、常に疑い、常に自分を律しなければならない。
呼吸を整えていると、通路の奥から複数の足音が聞こえてきた。
……新しいモンスターか?
私は気配を殺し、視線を向けた。
現れたのは、とてもよく見知った顔だった。
周囲を警戒する上近少年と、桜色の防具を身に纏った水無川さんである。
偶然、同じルートの調査で臨時パーティーでも組んだのだろうか。
二人は私がいる岩陰の近くまで来ると、安全を確認して少しだけ足を止めた。
彼らは私に気づいていないようだ。
「……やっぱり、納得できない」
不意に、上近少年が強い口調で言った。
「あの南塚原って職員のことです。あれだけのことをしておきながら、静河さんに直接謝罪もなしに免職って。それに、あの検査場の空気……誰も彼もが疑心暗鬼になってて、前はあんなんじゃなかったのに」
彼のその真っ直ぐな怒りは、若さからくる純粋さだろう。
対する水無川さんは、周囲を警戒しながら小さく息を吐いた。
「負け犬の遠吠え……じゃなくて。あ、弱い犬ほどよく吠える? みたいな。自分が正しいって思い込まないと立っていられないだけ。絶対そう」
同じような年齢のはずなのに、彼女は驚くほどドライで、冷めてすらいた。
「間違ってるのは向こうなんだから、放っておけばいい。因果応報。自分の行いはいつか必ず自分に返ってくる。世界はそういうふうになってる」
「でも、それじゃ静河さんが——」
「静河はそんなこと、これっぽっちも気にしてないと思うけど」
水無川さんの言葉に、上近少年は言葉を詰まらせた。
「……そろそろ行こうか」
上近少年が言うと、
「……たまたまルートが一緒になったってだけの臨時パーティーみたいなものなんだから、リーダーみたいな顔しないで欲しい」
水無川さんがそう言った。
「別にそんな顔してないけど」
「うん、してない。ちょっと言ってみただけ」
「何だよ、それ」
二人は最後まで私に気づかず、去っていった。
私は岩陰で、静かに目を閉じた。
正義感に燃える上近少年と、現実を割り切って捉える水無川さん。
正反対の二人だが、どちらも自分の頭で考え、この不条理な世界をどう生きていくべきか、必死に模索していることは共通している。
私ももがき続けるだろう。
この場所で生き残り続けるために。
定時になって地上へと帰還した私は換金を済ませ、管理協会を出た。
夏の夕暮れ特有の、少しだけ湿気を帯びた風が吹いていた。
今日の夕食は、『ごはん処 ふたば』の常連客が、美味いと話していた店にした。
大通りから少し外れた、年季の入った雑居ビル。
その薄暗い階段を四階まで上った先にある、小さなイタリア料理店。
重い木製のドアを開けると、ニンニクと香草、そして肉が焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
店内はカウンター席といくつかのテーブルがあるだけのこぢんまりとした空間で、本場イタリアの郷土料理店で修行を積んだというまだ若く見えるシェフが、一人で厨房を切り盛りしていた。
私はカウンターの端に腰を下ろし、メニューを見ることなく注文を告げた。
ここのスペシャリテである、ジビエの塊肉のローストだ。
注文を受けてからじっくりと時間をかけて火を入れるため、提供までには相当な時間を要する。
だが、今日はその時間を待つことすらも、一つの休息として楽しむつもりだった。
氷の入った水を飲みながら、店内を眺めていて気がついた。
見知った顔があったのだ。
ベテラン探索者の黒木氏だ。
彼はグラスに注がれた赤ワインを傾けながら、皿の上の肉を静かに味わっていた。
ダンジョンの深層で死線を潜り抜けている時とは違うだろう、その穏やかな表情。
私の視線に気づいたのか、黒木氏がこちらを見た。
お互いに目が合う。
だが、どちらも言葉を発することはなかった。
挨拶を交わす必要もない。
ここはダンジョンではなく、それぞれの時間を過ごすための場所なのだから。
黒木氏は再び視線をグラスへと落とし、私も厨房から漂う香りに意識を戻した。
やがて、私の目の前に分厚い皿が置かれた。
外側は香ばしく焼き上げられ、内側は美しい薔薇色を保った鹿肉のロースト。
バルサミコと肉汁を煮詰めた濃厚なソースが添えられている。
ナイフを入れると、驚くほど滑らかにナイフが沈み込んだ。
切り分けた肉を口へ運ぶ。
「————」
言葉は、出なかった。
野性味のある肉の旨味、香草の爽やかな香り、そしてソースの酸味が一体となって口の中に広がる。
ここに来て正解だった。
極上の味を楽しむ至福の時間を、私はただただ楽しんだ。
最後まで読んでいただきありがとうございます。
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