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元社畜は慎重さと準備を武器に、搾取する幼馴染や家族を切り捨て、ダンジョンで自立した平穏を勝ち取る  作者: 日富美信吾
第9部

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第107話:捏造の通報と、生きていく場所



 保安職員の南塚原が言った。


「あなたが持ち込みを禁止された化学物質をダンジョンに持ち込み、使用していたという訴えがありました。ご同行いただけますか」


 彼から、以前は感じられた敵意や害意みたいなものは感じられなかった。


 だが、彼の眼差しは、昏く、深く、澱んでいた。


 業務を終え、ただでさえ疲労が蓄積しているというのに、ここで無用な言い争いに時間を費やすことは、明日の業務への活力を削ぐだけだ。


 だが、明らかに理不尽なこの要求を受け入れるわけにはいかなかった。


 彼の指摘は、まったく身に覚えのないことだったからだ。


 私は持ち込み資材の事前審査を正規の手順で通過しているし、成分データの提出も怠っていない。


 禁止された化学物質を使用した事実など、一切ない。


「通報したのはどなたでしょう?」


 私は努めて静かな声で尋ねた。


「お教えできません」


 南塚原は表情を変えずに即答した。


「では、私が使用していたという化学物質は何ですか?」


「お教えできません」


「いつ、どこで、どのように使用していたというのでしょう?」


「お教えできません」


 まるで機械のように同じ言葉を繰り返す彼に、私は微かに眉をひそめた。


「何も教えていただけないのですね」


「質問は以上ですか? では、ご同行ください」


 南塚原の再度の要請に対し、私ははっきりと告げた。


「お断りします」


「……は?」


「まず、大前提として、私は何一つ、不正を行っていません。そして、具体的な事実が何一つ提示されない状況で、あなた一人に従うことはできません。話をするなら、別の方にも立ち会っていただきたい。場所はここでお願いします」


 自らの身を守るための、ごく当たり前の要求だった。


 だが、その言葉が南塚原の何かを刺激したようだ。


 それまで無表情だった彼の顔に、明確な怒りが浮かび上がった。


「うるさい! お前みたいなやつは、黙ってついてくればいいんだ……!!」


 彼が私の腕を強引に掴もうと手を伸ばしてきた時、


「何をしている」


 低い声がして、南塚原の動きが止まった。


 その顔が歪む。


 私は声の主を探すために周囲を見た。


 気がつけば、探索者たちによる相当な人だかりができており、それを割って、権藤さんが現れた。


 私は彼に一礼すると、


「実は……」


 と、今の状況を簡潔に伝えた。


 権藤さんは私の話を聞き、南塚原へ視線を向けた。


「訴えがあったというのは本当かね?」


「…………、はい。電話を受けました」


 再び、無表情に戻った南塚原が肯定した。


 権藤さんはしばらくの間、そんな彼を見つめていたが、


「……わかった。では、記録を確認してこよう。別の職員をここに呼ぶから、それまで待機していなさい」


 権藤さんはそう言い残すと足早に奥へと消え、入れ替わりに別の職員がやってきて、私と南塚原の間に立った。


 周囲の探索者たちが腕を組み、状況を注視していた。


 彼らの眼差しのほとんどは南塚原に向けられており、私に向けられたものは一つもなかった。


 誰も口を開かないまま、奇妙な沈黙が数分間は続いた。


 権藤さんが戻ってきた。


 その顔は険しいものだった。


「南塚原くん、通報の記録はなかったが?」


 周囲の探索者たちがどよめいた。


「……すみません。電話による通報ではなく、自分が直接聞いたのでした。うっかりしていました」


「なるほど。では、誰による訴えだったのか教えてほしい」


「……自分には通報者を守る義務がありますから」


「私は君と同じ協会職員だ。その私にも言えないというのかね?」


「……そ、それは」


 南塚原の無表情が崩れた。


 権藤さんの顔が悲痛なものに変わる。


「……君に静河さんの不正を訴えたという人物は存在しないのだろう?」


「ち、違います……! 自分は本当に——」


「なら! その探索者の名前を、今すぐ、ここで言いなさい……!!」


 権藤さんの一喝に、南塚原が後ずさった。


「君はありもしない通報者をでっち上げ、静河さんを不当に連行しようとした」


 南塚原の顔から、完全に血の気が引いていく。


 見守り、ざわめいていた探索者たちから、明確な非難の声が南塚原に殺到する。


「捏造!? ふざけんな……!」


「ありえないでしょ、協会の職員がそんなことって!!」


 周囲からの声に追い詰められた南塚原は、


「俺は間違ってない……!!」


 非難の声をかき消すほどの大声で怒鳴った。


 そして、血走った目で私を睨みつけた。


「間違ってるのはこいつだ……! 変容が続く状況で、一人だけ結果を出し続けるなんて! 絶対に何か不正をしているはずなんだ! あなたたちだって、そう思っているはずだ! そうだろう!?」


 同意を求めるように南塚原は周囲を見回すが、変わらない非難の眼差しが向けられるだけで、誰一人として同意する者はいなかった。


「お前、静河さんがどれだけ慎重に準備して潜ってるか、見たことあるのか……?」


 誰が言ったかはわからない。


 だが、探索者の中から、その声は静かに響いてきた。


「あんたらの作ったルールに従って、誰よりもキッチリやってるの、静河さんだろ……」


「静河さんのおかげで助かった命だってあるのに……」


 彼らは誰一人として、南塚原のように叫ばなかった。


 ただ、静かな告発が続いた。


 南塚原は周囲を見回し、


「な、なんで……だって、彼一人が……絶対におかしい……こんな、こんなの……」


 うつむき、うわ言のように、言葉にならない言葉を吐き出し始めた。


 そこに、以前彼を叱責した職員が駆けつけてきた。


「お前は……!」


 その職員は南塚原の胸ぐらをつかみ、怒りをぶつけるかと思いきや、


「真面目にやっていると、そう思っていたのに……」


 まるで涙をこらえるかのように唇を噛み締めた。


 職員は私に向かって深く頭を下げ、言った。


「彼の行動をしっかり管理できていなかった自分のミスです。大変申し訳ございませんでした」


「き、北林(きたばやし)先輩、俺は……」


 北林と呼ばれた職員は、南塚原の言葉に応えず、ただ彼を奥へと連行していった。


 南塚原は、抵抗しなかった。


 騒ぎは収束したが、多くの探索者たちはその場に残り、南塚原が消えた辺りを見ていた。


 私は小さき息を吐き、権藤さんに向き直る。


「ありがとうございました、権藤さん。権藤さんのおかげで助かりました」


「……感謝しなくていい。協会職員として、本当に申し訳なかった」


 権藤さんが頭を下げる。


 私は彼の肩に触れ、頭を上げさせた。


「やめてください。言った通り、権藤さんのおかげで助かったのです。それが事実です」


「……それでも、本当に申し訳なかった」


 再び頭を下げる権藤さんに、私も再び感謝を告げ、協会を後にした。


 外へ出れば、澄んだ夜空があった。


 梅雨が明け、夏が来た。


 爽やかな空気が頬を撫でていく。


 だが、身体の芯には、とてつもない疲労がこびりついていた。


 かつての『私』も似たような経験はしているし、日々のダンジョンは理不尽そのものだ。


 だが、それでも——。


 スーパーには寄らない。


 宿舎にも、まだ帰らない。


 私はそこへ向かった。


 静かな住宅街の中にある、『ごはん処 ふたば』。


 手書きのメニューが置かれた、温かな雰囲気の定食屋だ。


 あのデミグラスソースのハンバーグ。


 あるいは、優しい味の豚汁。


 静かにドアを開ければ、


「あ、いらっしゃい、静河さん!」


 姉妹の元気な声が、私を出迎えてくれた。




 翌朝。


 協会のロビーに足を踏み入れれば、異様な光景が広がっていた。


 新設された保安検査場のゲート前が、探索者たちの人垣で完全に塞がれていたのだ。


 それだけであれば、保安検査が始まった時と同様の光景だった。


 だが、誰一人、検査を受けようとしていないのだ。


 ある者は腕を組み、またある者は腰に手を当て、職員たちと睨み合っていた。


「……これはどういう状況ですか」


 推測しようにも、あまりにも状況が不明すぎて、私は近くにいた探索者に尋ねた。


 彼女は忌々しげに舌打ちをして言った。


「ボイコットよ。昨日の話、聞いたわ。あの南塚原って職員が、あなたのこと、証拠をでっち上げて連行しようとしたんでしょ」


 そのとおりだったので、私が頷けば、


「だからよ」


 彼女は職員たちを睨みつけた。


「そんな連中がやってる検査なんて、信用できるわけないでしょ。いくら書類を完璧に出したって、連中の気分次第で不正を捏造されるかもしれないのよ。冗談じゃないわ」


 ゲートの向こうでは、複数の職員が必死に声を張り上げていた。


 その中には、北林と呼ばれていた職員もいた。


「あれは南塚原の、彼個人の暴走です! 彼はすでに懲戒免職となり、ここに立つことは二度とありません! 私たちは協会に出向している公務員として、適正な検査をこれからも行ってまいります!」


 真摯な訴えではあったが、探索者たちには届かなかった。


「それが本当かどうかなんて、俺たちにわかるかよ!」


 聞き覚えのある声だ。


 颯真くんである。


 彼もまた、苛立ちを隠さず、職員たちを見据えていた。


 新しい制度が始まり、その運用にストレスが溜まっていたこともあるのだろう。


 これまでは何のストレスもなく、ダンジョンに向かうことができていたのだから。


 だが、ここにきて、職員による事実の捏造が発覚した。


 彼はもう、怒りを抑えきれなくなったのだろう。


 私はその対立から視線を外すと、ロビーの隅にある記載台へと向かった。


 申請用紙に、必要事項である持ち込む資材のリストと成分データを記入していく。


 書き終えた書類を手に、私は事前審査の窓口へ向かった。


 窓口の担当者は、私が提出した書類を受け取らず、ただ驚いたように私を見た。


「……何か問題でも?」


 書類に不備があって受け取れないというのであれば——。


「あ、いえ、そうではなく……いえ、あの、大丈夫、です。問題、ありません」


 私が差し出した申請用紙を受け取り、しかしいつものように淡々とではなく、ところどころ引っかかりながらそういうと、承認のスタンプを押した。


 許可証を受け取った私は一礼し、準備広場で業務前の確認作業を終え、保安検査場へと向かった。


 誰も並んでいない。


 抗議していた探索者たちが私に気づき、ざわめく。


「おい、静河! お前、なんで……!?」


 颯真くんだった。


「なんで一番の被害者が、大人しく検査なんか受けてんだよ……!!」


 振り返って、彼を見る。


 その顔には、怒り、苛立ち、不満、そして少なくない驚きの色があった。


 怒り、苛立ち、不満——私にも、それらがないとは言わない。


 理不尽な言いがかりによって、無駄に神経をすり減らされたのだ。


 しかも一度ではなく、何度も、執拗に。


 最後はありもしない通報を捏造までして。


 だが——。


「……制度に不満をぶつけたところで、私の今日が保障されるわけではありませんから」


 私の言葉に、颯真くんがさらに不満を吐き出そうとする。


 その気持ちも、やはり、わかる。


 それでも——。


「私は、ダンジョンで生きていくと決めたんです」


『私』が静河くんとなった、あの日に。


「新しいルールが設定されたのなら、それに従い、その中で安全を確保し、最善を尽くすだけです」


 私は、颯真くんを真っ直ぐに見た。


「私に、立ち止まっている余裕は、ありません」


 偽らざる、今の私の本心だ。


 私は颯真くんから視線を外し、トレイにバックパックとナイフなどの金属類を預け、ゲートをくぐった。


 当然、警告音はならなかった。


 固まったままの保安職員を見れば、慌てた様子で荷物の検査と照合を開始した。


「も、問題ありません」


 保安職員はそう言ったが、


「……バックパックの中を確認していませんでしたが?」


 私が告げれば、職員はハッとなり、慌てた表情から引き締まった表情へと変化させ、最初から確認作業をやり直す。


「……問題ありません」


「ありがとうございます」


 私はナイフなどの金属類を装備し直し、バックパックを背負う。


 あとはダンジョンに向かうだけだ。


 だが、その前に、一度だけ、一瞬だけ振り返れば、颯真くんが私を見ていた。


 口を何度か開いては閉じてを繰り返し、やがて何とも言えない疲れた表情を浮かべた。


 しかし、私に向かって、右手を突き出してきた。


 私は口元が緩むのを止められなかった。


 右手を出した。


 もう、私は振り返らなかった。


 私たちが生きていく場所はそこではなく、ここから先——ダンジョンだったから。


最後まで読んでいただきありがとうございます。

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