これは病気?
あの日から、カイの体調は、どうにもおかしかった。
胸のあたりが、ちくちくと落ち着かない。
食事の味も、心なしかいつもより薄く感じる。
夜も、いつもよりなかなか寝付けず、寝台の上で何度も寝返りを打つ日が続いていた。
特に、陽向が誰か他の夫と親しげにしている場面を見ると、その症状は、決まって悪化した。
「陽向様、こちらをどうぞ」
ヴィンスが、さりげなく陽向の肩に上着をかけてやる場面を見たときも。
「陽向、稽古の型、見てくれ」
レオが、照れくさそうに陽向を稽古に誘う場面を見たときも。
二人が並んで庭を歩く後ろ姿を、遠くから眺めているだけでも、胸の奥がざわついた。
フィンが、陽向の淹れた不慣れな茶を、嬉しそうに飲んでいる場面を見たときも。
オズワルドが「今日の陽向様は、一段と楽しそうですね」と誰かに耳打ちしているのを、偶然聞いてしまった時も。
そのたびに、カイの胸の奥では、説明のつかない重苦しさが渦を巻いた。
「……なんなんだよ、これ」
誰もいない廊下で、カイは一人、胸を押さえて唸っていた。
魔力の乱れなら、これまで散々経験してきた。
呪具の暴走、儀式の反動、様々な異常を身をもって知っている。
けれど、この感覚は、そのどれとも違う種類のものだった。
原因も分からず、治療法も見当がつかない。
魔術師として、それが何より落ち着かなかった。
壁に寄りかかり、天井を仰ぎながら、カイはしばらくその場で唸り続けた。
このまま放っておいて、悪化でもしたら困る。
そう自分に言い訳しながら、結局は誰かに相談する以外、道はなさそうだった。
思い余ったカイは、ある日、政務室にいたヴィンスを訪ねることにした。
本当は、フィンに相談しようかとも考えた。
けれど、幼い頃からの付き合いだからこそ、からかわれるのが目に見えていて、気が進まなかった。
レオに至っては、論外だった。
あの騎士団長に、こんな話を真面目に聞いてもらえるとは、到底思えなかった。
消去法で辿り着いたのが、ヴィンスだった。
「ヴィンス、ちょっと相談があるんだけど」
政務室の扉を、遠慮なく開けながら、カイは切り出した。
「珍しいですね、あなたが私を頼るとは」
書類から顔を上げたヴィンスは、いつもの穏やかな笑みを浮かべている。
その余裕のある態度に、カイは少しだけ苛立ちを覚えたが、今はそれどころではなかった。
「最近、胸が苦しいんだ。もしかしたら、魔力異常かもしれない」
真剣な顔で、カイはそう切り出した。
「具体的には、どんな時にその症状が出るんですか」
「陽向が、他の誰かと仲良くしてるところを見た時、とか」
その答えに、ヴィンスは、一瞬だけ目を丸くした。
それから、堪えきれないように、小さく笑いを漏らす。
「なんだよ、笑うところ?」
「いえ、失礼」
咳払いを一つして、ヴィンスは表情を戻した。
「その症状、私にも覚えがあります」
「え、ヴィンスもなったことあるの? やっぱり病気じゃん」
身を乗り出すカイに、ヴィンスは静かに首を振った。
「病気ではありません。それは——嫉妬です」
「……嫉妬?」
聞き慣れない診断に、カイはぽかんとした顔をする。
「あなたが、誰かに独占されたくないと感じている証拠ですよ」
「独占って、誰を」
「ご自分で、一番よく分かっているのでは?」
からかうような口調に、カイは何も言い返せなかった。
頭の中に浮かんだのは、決まって陽向の顔だった。
淡々と告げられたその言葉に、カイはしばらく固まっていた。
「治療法は?」
恐る恐る尋ねると、ヴィンスは、あっさりと答えた。
「ありません」
「重病じゃん!」
思わず声を上げたカイに、ヴィンスは楽しげに笑った。
「不治の病、というやつです。私も、いまだに完治しておりませんので」
「宰相のあんたでも、治らないの」
「治す気も、正直ありませんが」
穏やかにそう言い切るヴィンスの顔には、かつての苦い経験の名残がある一方、どこか満ち足りたものも浮かんでいた。
その言葉の意味を、カイはすぐには理解できなかった。
けれど、政務室を出て、夕暮れの廊下を一人歩きながら、カイはようやく、自分の中にあったものの正体に、少しずつ気づき始めていた。
これは、病気なんかじゃない。
もっと単純で、もっと厄介な感情だった。
廊下の窓から見える夕焼けが、やけに眩しく感じられた。
自分の中に、こんな感情が育っていたことに、カイ自身、まだ半分も信じられずにいた。
けれど、否定しようとすればするほど、胸の奥の疼きは、はっきりとした輪郭を持っていく。
「……マジか」
誰に言うでもなく、カイは小さく呟いた。
その声には、これまでの飄々とした調子とは違う、戸惑いの色が滲んでいた。
天才魔術師と呼ばれ、大抵のことは器用にこなしてきた自負があった。
けれど、この感情だけは、どう向き合えばいいのか、まるで見当がつかなかった。
魔法の理論書には載っていない、ひどく厄介な現象だった。
屋敷の方角を見つめながら、カイはしばらく、その場に立ち尽くしていた。
自分の中で膨らみ続けるこの気持ちを、これからどうすればいいのか。
答えの出ない問いだけが、夕暮れの空に、静かに溶けていった。




