僕が決める
フィンの願いを聞いたあの日、陽向は迷わず、神殿に正式な申請書を提出していた。
「フィンさんと、結婚したいです」
たったそれだけの、けれど陽向にとっては大きな一歩だった。
申請書に自分の名前を書き込むとき、指先が少し震えた。
それでも、迷いはなかった。
申請を出したあとは、落ち着かない日々が続いた。
神官の婚姻という前例のない話だけに、返事はなかなか届かない。
屋敷でも、神殿からの使いが来るたびに、陽向は思わず身構えてしまっていた。
「まだ、何も言ってきませんね」
「上の方々も、色々と検討することがあるのでしょう」
ヴィンスが、政務の合間にそう教えてくれた。
「時間がかかるのは、悪いことばかりではありません。それだけ、真剣に考えている証拠でもあります」
その言葉に、陽向は少しだけ心を落ち着けた。
レオも、何も言わずに、いつもよりそばにいてくれる時間が増えていた。
その静かな気遣いが、陽向にとって、何よりの支えになっていた。
そうして数日後、神殿から正式な呼び出しがあった。
「フィン殿の婚姻について、上層部での結論が出たそうです」
使者の言葉に、陽向は緊張しながら神殿へと向かった。
隣を歩くレオとヴィンスも、いつになく硬い表情をしている。
「何を言われても、お前の味方だ」
レオが、静かにそう言った。
「何かあれば、いつでも助け船を出します」
ヴィンスも、小さく頷く。
二人の言葉に、陽向は少しだけ、緊張が和らぐのを感じた。
大聖堂に集められていたのは、神殿の重鎮たちだった。
居並ぶ神官たちの中央に、フィンの姿もある。
その顔は、心なしか強張って見えた。
「此度の件、特例として認めることといたします」
年配の神官長が、重々しい声で告げる。
陽向は、ほっと胸を撫で下ろしかけた。
けれど、続く言葉に、その安堵はすぐに曇った。
「ただし、この婚姻は『神の導きによる婚姻』として、公に発表いたします」
「神官の戒律を破る前例となる以上、然るべき理由づけが必要です」
「魂の相性、そして先日の治癒の様子。これらはまさに、神意の表れと解釈するのが妥当でしょう」
居並ぶ神官たちが、次々と頷いていく。
彼らにとっては、それが最も丸く収まる形なのだろう。
淡々と語られる説明に、陽向の中で、何かが引っかかった。
隣に立つフィンの表情も、曇っている。
「あの」
陽向は、思わず声を上げた。
大聖堂中の視線が、一斉に自分へ向く。
心臓が、早鐘のように打っていた。
それでも、ここで黙っているわけにはいかなかった。
「特例をしてくださるのは、感謝しています」
まず、そう切り出した。
自分たちのために動いてくれた神殿への礼儀は、忘れたくなかった。
「ですが、神様に決められたから、フィンさんと結婚するわけじゃありません」
はっきりとした声だった。
自分でも、驚くほどに。
「僕が、フィンさんを選びました。それだけです」
大聖堂に、一瞬、静寂が落ちた。
神官長が、少し困惑したように眉を寄せる。
「陽向様、これは神殿の体面にも関わることでして……」
「体面のために、僕たちの気持ちを、神様のせいにしないでください」
食い下がる陽向の声は、震えていたが、揺らいではいなかった。
周囲の神官たちが、ざわめき始める。
「陽向様、お気持ちは分かりますが、これは神殿の伝統に関わることで……」
別の神官が、なだめるように口を挟もうとする。
けれど、陽向は怯まなかった。
これまでの自分なら、きっとこの場で黙り込んでいただろう。
大人しく、場の空気に合わせていただろう。
けれど今は、譲れないものがあった。
フィンが、隣で息を呑む気配がした。
「フィンさんが、掟を破ってまで、自分の気持ちを口にしてくれました」
「その気持ちを、僕は神の導きだなんて言葉で、覆いたくないんです」
言い終えると、陽向は自分の心臓の音が、いつのまにか落ち着いていることに気づいた。
怖くなかったわけではない。
けれど、言うべきことを言えたという実感の方が、今は勝っていた。
大聖堂を沈黙が包む中、陽向はまっすぐに神官長を見据えていた。
これは、陽向が初めて、公の場で自分自身の意思を、はっきりと主張した瞬間だった。
かつて、家族にすら本音を言えず、異世界に逃げ込んだ自分。
その自分が、今、大勢の前で、自分の言葉を貫こうとしている。
その変化に、誰よりも陽向自身が、驚いていた。
大聖堂の隅で見守っていたレオとヴィンスが、小さく目を見交わす。
その表情には、驚きと、それ以上の誇らしさが浮かんでいた。
神官長は、しばらく黙り込んだあと、深く息を吐いた。
「……分かりました。発表の文言については、改めて検討いたしましょう」
その言葉に、陽向は、ようやく肩の力を抜くことができた。
大聖堂に、ざわめきとも安堵ともつかない空気が、じわりと広がっていく。
隣で、フィンが小さく、けれどはっきりと笑ったのが分かった。
これまで見た、どの微笑みとも違う、飾らない笑顔だった。
「ありがとうございます、陽向様」
囁くような声で、フィンがそう言った。
「お礼を言うのは、僕の方です」
陽向も、小さく笑い返す。
大聖堂を出ると、外の空気が、いつもよりずっと澄んで感じられた。
これから先、何が起きるかは分からない。
それでも、自分の言葉で選び取ったこの関係を、これからも大切にしていきたいと、陽向は静かに思った。




