フィンの願い
あの日から数日後、フィンの方から、屋敷を訪ねてきた。
いつもと違う、どこか緊張した面持ちだった。
「少し、お話ししたいことがあって」
サロンに通されたフィンは、いつもより硬い表情をしていた。
オズワルドが茶を運んできたあと、そっと気を利かせて部屋を後にする。
二人きりになった部屋で、フィンはしばらく、膝の上で手を組んだまま黙っていた。
「僕は、物心つく前から、神殿で育ちました」
前置きもなく、フィンはぽつりと語り始めた。
「両親の顔も、覚えていません。神殿の教えだけが、僕にとっての世界のすべてでした」
「人のために生きることこそ、正しいこと。それが、僕の中に刻まれた、一番の教えです」
淡々とした声だったが、その裏に、長い年月をかけて染み込んだ諦めのようなものが滲んでいた。
「だから、僕は……」
フィンは、そこで言葉を止めた。
「自分が何を欲しいか、考えたことが、ほとんどありませんでした」
その告白に、陽向は胸が締めつけられる思いがした。
誰かのために尽くすことだけを教えられ、自分自身の願いを持つことすら知らずに育った。
それは、想像するだけで、ひどく寂しいことのように思えた。
自分自身、日本にいた頃は、当たり前のように「したいこと」を持っていたはずだった。
けれどフィンには、その当たり前すら、与えられてこなかったのかもしれない。
「フィンさんは」
陽向は、静かに、けれどまっすぐに問いかける。
「神官じゃないフィンさんは、何がしたいですか」
その問いに、フィンは大きく目を見開いた。
まるで、そんな質問を投げかけられたことが、生まれて初めてであるかのように。
長い沈黙が落ちた。
フィンは、何度か口を開きかけては、また閉じることを繰り返していた。
自分の内側にある感情を、どう言葉にすればいいのか、分からずにいるようだった。
膝の上で組まれた指先が、微かに震えている。
陽向は、急かさなかった。
ただ、静かにその時間を、一緒に過ごしていた。
窓の外で、鳥の声がした。
遠くで、屋敷の使用人たちの気配が、微かに聞こえる。
そんな何気ない日常の音だけが、静かに部屋を満たしていた。
やがて、フィンが、かすれた声で、ようやく口を開いた。
「……あなたの、隣にいたい」
それだけを、絞り出すように言った。
「生まれて初めて、誰かのためではなく、自分のために、何かを望んでいます」
その声は震えていたが、確かな響きを持っていた。
陽向は、思わず息を呑んだ。
これまでのフィンからは、決して聞くことのなかった言葉だった。
教えでもなく、義務でもなく、ただフィン自身の、剥き出しの願い。
「その願い、聞いてもいいですか」
陽向がそう尋ねると、フィンは、初めて泣きそうな顔で笑った。
「聞いてください。……できることなら、叶えてほしいです」
その表情には、これまでの完璧な神官らしさはどこにもなかった。
ただ一人の人間として、不安と希望を抱えた、素のままの顔だった。
陽向は、その顔を見つめながら、静かに頷いた。
言葉はまだ、その先には進んでいない。
けれど、二人の間に流れる空気は、確かに変わり始めていた。




