神官は恋をしない
翌日、陽向は一人で神殿を訪れた。
指摘されてから、気持ちは日に日にはっきりしていく一方だった。
フィンの顔を思い浮かべるだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
会えない日が続くと、それだけで少し寂しくなる自分にも、いつのまにか気づいていた。
このまま曖昧にしておくより、きちんと向き合いたい。
そう思っての訪問だった。
神殿の回廊を歩きながら、陽向は何度も、頭の中で切り出す言葉を練習していた。
「フィンさんのことが、気になっていて」なのか。
「フィンさんは、僕のことをどう思っていますか」なのか。
どの言い方も、口にする前から気恥ずかしくて、うまくまとまらない。
けれど、いつものように迎えてくれたフィンの顔を見た瞬間、決めていたはずの言葉が、喉の奥で詰まりそうになる。
それでも、意を決して切り出した。
「フィンさんに、聞きたいことがあって」
「なんでしょう」
穏やかな微笑みを浮かべるフィンに、陽向は深呼吸を一つする。
「フィンさんは、僕のこと、どう思ってますか」
その問いに、フィンの表情が、初めて固まった。
「……どう、とは」
「はぐらかさないでください」
真剣な陽向の様子に、フィンは目を伏せた。
長い沈黙のあと、静かに口を開く。
「申し訳ありません。お応えすることはできません」
「どうして……」
「神官は、家庭を持たないのが、この神殿の伝統です」
フィンの声は、淡々としていた。
「法で禁じられているわけではありません。けれど、長く受け継がれてきた戒律です」
「歴代の神官の中には、家庭を持った方も、いないわけではありません」
フィンは、静かに続ける。
「ですが、そのほとんどが、儀式の場から静かに退くことになっています」
「戒律でも、絶対というわけではないんですね」
食い下がるように、陽向はそう返した。
「戒律の話だけでは、ありません」
フィンは、少し表情を歪めた。
「あなたを最初に導いたのは、僕です。混乱していたあなたを守る立場にあった僕が、あなたを欲しがるなど、あってはならないことです」
「それは……」
「僕の中の、けじめの問題です」
きっぱりとした声だった。
けれど、その瞳の奥には、はっきりとした葛藤が見え隠れしていた。
まるで、自分自身に言い聞かせるような口調だった。
窓の外では、鳥の鳴き声が、いつも通りのどかに響いている。
その平和な音と、二人の間に流れる重たい空気とが、ひどくちぐはぐに感じられた。
陽向は、それ以上、何も言えなくなった。
聞かなければよかった、とは思わない。
けれど、聞いてしまったことで生まれた痛みは、想像していたよりずっと重かった。
「すみません、変なことを聞いて」
無理やり笑みを作り、逃げるようにその場を後にする。
背中に、フィンの視線を感じた気がしたが、振り返ることはできなかった。
屋敷への帰り道、視界がにじんで、足元がおぼつかなかった。
期待していなかったつもりだった。
それなのに、こんなにも胸が痛むなんて、思ってもみなかった。
神殿で初めて出会ったときから、フィンはいつも変わらず穏やかで、陽向を急かすことも、決めつけることもなかった。
その優しさに、いつのまにか惹かれていたのだと、今更のように思い知る。
分かってもらえないことより、自分の気持ちに、こんなにも名前がついていたことの方が、陽向には驚きだった。
屋敷に戻ると、様子のおかしい陽向に、レオとヴィンスはすぐに気づいたようだった。
「……何かあったのか」
レオが、短く尋ねる。
「……別に、なんでもないです」
いつもの口癖が、こんな時にだけするりと出てきてしまう。
けれど、二人とも、それ以上は聞いてはこなかった。
代わりに、レオが黙って台所へ向かい、しばらくして小皿を手に戻ってくる。
焼き菓子が、不揃いな大きさで並んでいた。
言葉もなく、それをテーブルにことりと置く。
続いて、ヴィンスが茶器を運んできた。
いつもの完璧な所作で、湯気の立つ茶を淹れていく。
二人とも、何も言わない。
ただ、それぞれのやり方で、陽向のそばに居座っていた。
その光景に、陽向は思わず、小さく噴き出してしまった。
「……二人とも、慰め方が不器用すぎませんか」
「菓子で足りないか」
レオが、真顔でそう返す。
「足りないとかじゃなくて」
「では、量が多すぎましたか」
ヴィンスまで、涼しい顔でそう続ける。
「そういうことでもないです」
「では、どういうことです」
「気持ちの問題です、気持ちの」
以前、自分がレオに言った台詞をそのまま返す羽目になり、陽向は思わず脱力した。
思わず笑いが漏れると、張り詰めていた胸の奥が、少しだけ軽くなった気がした。
二人は、慰め方も分からないまま、それでも精一杯、陽向のそばにいようとしてくれている。
その不器用さが、今はどんな言葉よりも、胸に染みた。
しばらくして、笑いが落ち着くと、レオがぽつりと言った。
「無理に話さなくていい」
「話したくなったら、聞きます」
ヴィンスも、静かに付け加える。
陽向は、二人を挟むようにして、ソファに深く沈み込んだ。
レオの体温が、片側から伝わってくる。
ヴィンスが、そっと膝掛けをかけてくれる。
窓の外では、日が少しずつ傾き始めていた。
橙色の光が、静かな部屋の中に、ゆっくりと差し込んでくる。
言葉はなかった。
それでも、その静かな時間だけで、陽向の中の何かが、少しずつ緩んでいくのが分かった。
時折、レオが小さく肩を寄せ、ヴィンスがそっと手を握ってくれる。
慰めの言葉より、その温もりの方が、今の陽向には何倍もありがたかった。
フィンのことを思うと、まだ胸の奥がちくりと痛む。
けれど、この二人がそばにいてくれる限り、その痛みに一人で押し潰されることはないのだと、陽向は静かに感じていた。
一人じゃない。
そのことだけが、今はどうしようもなく、ありがたかった。




