誰にも言えないまま
スマートフォンの通知は、その日も静かに増え続けていた。
母親からのメッセージに、まだ返信できていない。
「健康診断どうだった?」の下に、続けてもう一件届いていた。
「元気にしてる?」
なんてことのない、いつもの確認だった。
けれど陽向は、その画面を開くことすらできずにいた。
大学へは行った。
授業にも出た。
拓海たちとも、普段と同じように笑って話した。
それなのに、帰り道になると、途端に体から力が抜けていく。
「別に、いつも通りにしてるだけなのに」
そう自分に言い聞かせながら、陽向はアパートの階段を上る。
鍵を開け、電気もつけないまま、しばらく玄関に立ち尽くす。
暗い部屋の中で、自分の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえた。
次の日も、その次の日も、大学生活は表面上いつも通りに過ぎていった。
「陽向、今日もノート貸してくんない?」
「いいよ、はい」
「相変わらず陽向って優しいよな」
そんな何気ない会話一つにも、陽向は内心びくりとしてしまう。
優しいと言われるたび、これまで通りでいられるだろうか、と考えてしまう自分がいた。
講義中も、教授の声がどこか遠くから聞こえてくるように感じる。
ノートを取る手は動いているのに、内容がまるで頭に入ってこない。
そんな状態のまま、気づけば一日が終わっている。
その日から、陽向の生活には奇妙な習慣が増えていた。
夜になると、スマートフォンでΩについて検索してしまう。
就職。結婚。発情期。抑制剤。制度。
調べても調べても、はっきりした答えは出てこない。
ただ「大変らしい」という漠然とした不安だけが、積み重なっていく。
「どうして自分だけ、普通じゃなかったんだろう」
その問いが、頭の中で何度も繰り返される。
答えの出ない問いだと分かっていても、考えるのをやめられなかった。
検索の途中で、掲示板の書き込みに目が留まる。
「Ωだと分かってから、友達の態度が変わった」
「悪気はないんだろうけど、扱いが変わるのが一番きつい」
そうした言葉の一つ一つが、まだ起きてもいないことへの不安を膨らませていく。
拓海たちの顔が、また頭に浮かんだ。
今と同じように、笑ってくれるだろうか。
それとも、どこか腫れ物に触るような態度になってしまうのだろうか。
考えても仕方のないことだと分かっているのに、指はスマートフォンから離れなかった。
二日目の夜には、姉からも個別にメッセージが届いていた。
「お母さんが心配してたよ。ちゃんと返信しときなよ」
いつもと変わらない、少しお節介な姉らしい文面。
それだけに、余計に胸の奥がちくりと痛んだ。
三日目の夜、陽向はようやく通話アプリを開いた。
画面には「お母さん」という表示。
指先が、そこで止まる。
深呼吸を一つして、通話ボタンを押した。
呼び出し音が、一回、二回と鳴る。
その音を聞いているうちに、心臓の音のほうがうるさくなってくる。
指先が、じっとりと汗ばんでいく。
もしもし、と母の声が聞こえたら、自分は何と言うつもりだったのだろう。
そんなことすら、陽向にはまだ分かっていなかった。
三回目が鳴り終わる前に、陽向は通話を切った。
画面が暗くなる。
その暗さが、今の自分の気持ちにちょうど重なる気がした。
「何て言えばいいんだよ、これ」
誰もいない部屋で、陽向は小さく呟く。
「実はΩでした」なんて、電話越しに言える気がしなかった。
顔を見て言うべきだとも思う。
けれど、顔を見たら余計に言えなくなる自分も、容易に想像がついた。
母は、きっと驚くだろう。
父は、何と言葉をかければいいか分からず、黙り込むかもしれない。
姉は、心配そうな顔で「大丈夫なの」と聞いてくるはずだ。
そのどれもが、困惑を含んだ顔をしている。
そんな家族の姿ばかりが、陽向の頭に浮かんでは消えていく。
想像の中の家族は、いつも陽向を見て、少しだけ困ったように笑っていた。
その笑い方に、覚えがあった。
昔、何か失敗をしたときに向けられた、あの優しくも気まずい笑い方だ。
きっと今度も、同じ顔をされるのだろう。
そう思うと、余計に言葉が喉の奥で固まってしまう。
その夜も、結局何もできないまま、日付が変わろうとしていた。
「明日こそ、ちゃんと話そう」
布団に潜り込みながら、陽向はそう自分に言い聞かせる。
もう先延ばしにはしない。
そう決めたはずなのに、決意はどこか他人事のように軽かった。
天井を見上げながら、明日話すときの言葉を、頭の中で何度も組み立ててみる。
「実は、検査でΩだって分かって」
そこまで考えて、続きが出てこない。
その先をどう言えばいいのか、何度考えても分からなかった。
分からないまま、瞼が重くなっていく。
目を閉じてしばらく経った頃、瞼の裏がふいに明るくなった。
不思議に思って目を開けると、部屋いっぱいに白い光が満ちていた。
まぶしさに、思わず腕で顔を覆う。
何が起きているのか、理解が追いつかない。
(もしかして、このまま死んでしまうんだろうか)
そんな突拍子もない考えが、頭の隅をよぎる。
けれど不思議と、恐怖よりも先に、諦めにも似た静けさのほうが勝っていた。
耳の奥で、水の中にいるような重たい音が響いている。
床が、あるのかどうかさえ分からなくなっていく。
体が、ふわりと浮くような感覚に包まれる。
(まだ、何も言えてないのに)
光に呑まれていく意識の中で、陽向はそれだけを強く思った。
けれど同時に、心のどこかで、別の思いも顔を出していた。
——言わずに済んで、良かったのかもしれない。
「Ωだ」と知ったときの、家族の困惑した顔。
それを実際に見ずに済むのなら、これで良かったのだと、自分に言い聞かせている自分がいた。
安堵とも呼べないその感情に、陽向自身が一番戸惑っていた。
情けない、とどこかで思う。
それでも、今はその情けなさごと、光の中に押し流されていくしかなかった。
光は、もう視界のすべてを塗りつぶしていた。
音も、重さも、何もかもが遠のいていく。
そのまま、陽向の意識は静かに途切れた。




