検査の日
朝、大学へ向かう道はいつも通りだった。
コンビニでいつもと同じ紙パックのコーヒーを買い、いつもと同じ時間の電車に乗る。
窓に映る自分の顔は、どこにでもいる普通の大学生そのものだった。
荒牧陽向は、自分のことをそう思っていた。
特別に優れているわけでも、特別に恵まれているわけでもない。
ただ、平均的で、ごく普通の一年生。
その自覚があったからこそ、自分の第二性を一度も疑ったことがなかった。
βという判定は、確認作業のようなものだと思っていた。
そのくらい、当たり前のことだったのだ。
その日は、学内の定期健康診断の再検査日だった。
医務室から渡された封筒を、陽向はしばらくリュックから出せずにいた。
「陽向、まだ開けてないの?」
購買のパンを片手に、友人の拓海が隣の席にどかりと座る。
「別に、急いで見る必要もないし」
「気になんないの、それ」
「だってβ以外ありえないって。俺、フェロモンとか人生で一回も感じたことないし」
陽向は笑いながらそう言って、封筒をリュックの底に押し込んだ。
拓海が呆れたように笑う。
「そこまで言い切れるの、逆にすごいけどな」
「だって、βの家系だし。父さんも母さんも姉さんも、みんなβだし」
自分だけ違う結果になるはずがない。
陽向はそう信じて、疑ったことすらなかった。
ここ数年、βの検査結果は形式的なものになりつつある、とニュースで見た覚えもある。
判定方法が進歩して、βの判定にほとんど誤差が出なくなったからだ、と。
だからこそ、再検査という言葉自体、陽向にはあまり現実味がなかった。
昼休みが終わる頃、陽向は学内放送で保健室に呼び出された。
「もう一度、詳しい検査を受けてもらえますか」
保健医の声は、いつもより少しだけ硬かった。
その硬さに、陽向は初めて小さな違和感を覚える。
けれどまだ、本当の意味では何も分かっていなかった。
放課後、指定された病院へ向かう道すがらも、陽向はさほど深刻に考えていなかった。
きっと数値の誤差か何かだろう。
そんな程度の気持ちで、待合室の硬い椅子に座っていた。
消毒液のにおいが、鼻の奥にこびりつく。
名前を呼ばれて診察室に入ると、医師は手元の書類にしばらく目を落としていた。
そして、静かに顔を上げる。
「陽向さんの第二性は、Ωです」
医師は淡々と、しかし言葉を選ぶように、その一言を口にした。
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
頭の中で、その一言がうまく像を結ばない。
βだとばかり思っていた。家族もみんなβで、疑ったことすらなかった。
この世界の日本では、Ωへの露骨な差別こそ、昔よりずっと減っていると言われている。
けれど「就職で不利になりやすい」「結婚では保護される側とみなされる」「発情期の管理が必要になる」——そうした生きづらさは、今もはっきりと社会の中に残っていた。
同じ大学に、Ωの先輩が一人だけいる。
彼女が就職活動で苦労していたという話を、陽向は何度か耳にしたことがあった。
面接で第二性を聞かれ、遠回しに不採用を重ねられたのだと、誰かが噂していたのを思い出す。
発情期のたびに休む必要があること。
抑制剤を切らせない生活を、この先ずっと続けなければならないこと。
そうした話の断片が、今になって次々と頭の中に浮かび上がってくる。
拓海たちは、これまで通り自分と話してくれるだろうか。
そこまで考えて、じわりと冷や汗が滲んだ。
その話を思い出すだけで、腹の底がすっと冷えていく。
医師が続けた。
「ご家族にも、きちんと説明されたほうがいいと思います」
その一言に、陽向の頭に浮かんだのは、喜ぶ家族の顔ではなかった。
困ったように眉を寄せる、両親の顔だった。
説明会で渡されたパンフレットを鞄にしまいながら、陽向はほとんど内容が頭に入ってこないことに気づく。
「以上になります。何か質問はありますか」
「……大丈夫です」
本当は、聞きたいことなど山ほどあった気がする。
それなのに、言葉にする気力が湧いてこなかった。
診察室を出たあと、陽向は病院の洗面所に寄った。
蛇口をひねり、水音だけがやけに大きく響く。
鏡に映る自分の顔を、じっと見つめる。
昨日と、何も変わっていない。
肌の色も、目の形も、少し垂れた目じりも。
「……どこが変わったんだろ」
陽向は鏡に向かって、小さく呟いた。
自分の体は何一つ変わっていないのに、世界からの見え方だけが、音もなく変わってしまった。
その落差だけが、じわじわと胸の内側に広がっていく。
鏡の中の自分は、いつもと同じ顔をしているのに。
まるで別人にすり替わってしまったような、そんな心もとなさだけがあった。
病院を出て、陽向はしばらく当てもなく歩いた。
大学の近くを通りかかると、見知った顔ぶれが楽しそうに笑っているのが見えた。
同じ授業を取っている、仲の良さそうな学生たちだ。
誰かの冗談に、誰かが大げさに笑う。
いつもと変わらない、なんでもない放課後の風景。
「昨日までと、何も変わってないはずなのに」
陽向は、彼らを横目に見ながら、そう思う。
それなのに、自分だけが、世界から一段外側へ押し出されてしまったような気がしていた。
普通でいることは、こんなにも簡単に崩れるものなのだと、陽向はこの日初めて知った。
帰り道の空は、いつも通りオレンジ色に暮れていく。
それすらも、今日はどこか他人事のように見えた。
アパートの部屋に戻っても、何をする気力も湧かなかった。
カバンを床に置いたまま、陽向はベッドに倒れ込む。
天井の木目を、ただぼんやりと見つめる。
こんな一人暮らしの部屋も、今日までとまったく同じはずだった。
見慣れた家具も、隅に積んだ教科書の山も、何一つ変わっていない。
それなのに、部屋の空気だけが、少しだけ余所余所しく感じられた。
自分の居場所のはずなのに、どこか借り物のように思えてしまう。
スマートフォンを開き、Ωについて検索してみる。
出てくるのは、法律の話、就職の話、結婚制度の話ばかりだった。
調べれば調べるほど、
「どうして自分だけ、普通じゃなかったんだろう」
という考えに、じわじわとはまり込んでいく。
その夜、スマートフォンが小さく震えた。
母親からのメッセージだった。
「健康診断どうだった?」
何気ない、いつも通りの一文。
その普通さが、今はかえって胸に刺さった。
陽向は返信欄に指を置いた。
『実は俺、Ωだった』
打った文字を、しばらくじっと見つめる。
けれど、送信ボタンには指が届かなかった。
文字を一つずつ、消していく。
指先だけが、やけに冷たい。
最後に残ったのは、自分に向けた短い独り言だけだった。
「……明日、言おう」
そう決めて、陽向はスマートフォンを枕元に置き、目を閉じる。
明日になれば、少しは言葉にできる気がした。




