9 羊の目
決意の朝から一日が過ぎ、エルヴィアはカルスを待つ
ギルドの隠れ家で、エルヴィアは時が来るのを待っていた。
「エル――」
となりの椅子に座ったネラが、こちらを窺う。
「やっぱり、無理に自分でやらなくても……」
外から鳥のさえずりが聴こえる。
それがやかましく感じるほど、家の中は静まり返っていた。
「彼女の決意を鈍らせるのは、感心しませんね」
パリオが窓の外を見ながら言う。
「悩むも揺れるも、大いに結構。しかし、時は待ちません」
礼拝堂での光景がよぎる。
パリオの躊躇ない鎚矛の一撃。
その後の淡々とした尋問。
「最善だけを選べる者などいない。賢明な者ほど、それをよく識っている」
パリオの瞳に、微かな憂いが滲んでいる気がした。
「高潔を盲信するのはお止めなさい。そこに神はいない。大義に道を委ねることなかれ――道とは、あなた自身の心が拓くものです」
骨の指輪に視線を落とす。
月の晩に、つかみ取った運命――
これが、自らの進むべき道なのか。
「そんな簡単に割り切れないよ――ねぇ?」
ネラがこちらを見る。
「ありがとう……でも、私は決めたの」
子鹿のように逃げ惑った夜の、心臓の鼓動。
血の味と色、汗で張り付く夜着、重い足取り。
森で食べたスープの味。
伯爵の娘として、ではなく。
まだ識らぬ明日を、生きるために――
(私は、殺すのだ)
窓から射す西日が弱まり、隠れ家の扉が開く。
そこにはカルスが立っていた。
エルヴィアは立ち上がり、軽く息を吸って、家の外へ出た。
†
サルディアの町外れの街道。
太陽はだいぶ傾いている。
エルヴィアと並んで馬車を待つのは、カルスと、見知らぬ大男だ。
この男も、闇ギルドの一味らしい。
「――あの馬車だ。予定どおりだな」
蹄と車輪が土を踏みつける音が近づく。
荷馬車が目の前で停まると、カルスと大男は積まれていた大きな木箱を持ち上げ、用意していた荷車へ載せ替えた。
三人はそのまま街道を外れ、荷車を森の中へと運ぶ。
森を進むと、窪んだ地面の奥に洞穴が空いているのが見えた。
荷車を押して、そのまま入ってしまえるほど大きな横穴だ。
洞穴の中は暗い。
松明に火を着けたカルスが、荷車を引く大男を先導する。
その後にエルヴィアが続いた。
穴の奥の空間には、長い木の杭が一本、地面に突き刺さっていた。
荷台の上の箱から布で巻かれた物体が取り出される。
「あとは俺達がやる。〝ミノーク〟は外を見張っていてくれ」
カルスがそう言うと、大男は無言で頷き、来た道を戻っていった。
大きな布を取り除くと、半裸の女が姿を現す。
これが――〝羊〟か。
長い髪の女は、土の上でぐったりしている。
「目覚めないうちに、お前の夜着を着せるんだ」
エルヴィアは、女に夜着を被せる。
手間取りながらどうにか着替えさせると、カルスは女を杭に縛り付けた。
「今回は、指輪の力は使わないでくれ」
そう言うと、カルスは腰のダガーナイフを抜いて、手渡してきた。
「傷跡が特殊だと怪しまれる」
エルヴィアはダガーを受け取る。
手の震えに逆らうように、柄を強く握り込む。
この刃物で――今から、人を殺すのだ。
「――その目隠しと、猿ぐつわを取ってくれる?」
「なぜだ?」
「相手の顔くらい、知っておくべきだと……」
カルスは少し躊躇したが、それに従った。
「そろそろ痺れ薬が切れる。騒がれる前に済ませよう」
やがて女の顔が露わになる。
布に圧迫された目元がわずかに赤く染まっている。
涙や唾液の跡が、恐怖を語っていた。
吊り目がちな青い瞳、鼻のあたりのそばかす。
まるで自分と同じような、白金の髪――
『エルの髪色と、そっくりね?』
思い出した。
あの〝厭な〟記憶が、蘇る。
エルヴィアは息を呑んだ。
「あ、あなたは――」
縛られた女は、虚ろな目でこちらを見た。




