8 悪しき存在
おぞましい姿の魔物が、今にもこちらへ飛びかかろうと、身を屈めている。
エルヴィアは、冷や汗が服の内側を伝うのを感じていた。
「アタシが立ち上がったら、ふたりは近くの木にしがみついて」
ネラが言うと、アニスが口を出す。
「なによ、木に登ってやり過ごせというの?」
「いいから、言うとおりにして!」
もし失敗したら――
エルヴィアは、すぐに〝悪魔の手〟を呼び出そうと思っていたが、木に登ったままそれが可能だろうか。
いずれにしても、もう考えている余裕はない。
ネラはやる気だ――
「いくよ――」
ネラは、杖を片手に立ち上がった。
その瞬間、エルヴィアとアニスは左右に別れ、手頃な樹木にしがみつく。
魔物は、びくりと痙攣するように反応したが、誰を狙うか迷っている。
その隙に、ネラは杖を高く掲げた。
「風と踊れ!」
薄暗い森に呪文を唱える声が響くと――
エルヴィアの身体から、すうっと力が抜けるような感覚がした。
驚いて、必死に木にしがみつく。
そして、魔物達の金切り声がこだまする。
木の陰からそちらを見ると――
(凄い……)
魔物や、黒ローブの者、そして落ち葉や石ころまでもが、宙に浮いている。
空中で必死にもがく姿は、酒を飲んで踊る酔いどれのように滑稽だった。
「ほらほら、頑張って踊りな!」
ネラがさらに杖を振り上げると、魔物達はどんどん上昇していく。
「貴様ッ、下ろせ!」
上方から怒号が聞こえる。
それを聞いたネラは、小憎らしく笑ったかと思うと――
「じゃあ、下ろしてあげるよ!」
そう言って、杖を勢いよく振り下ろす。
空中で踊っていた者達は、まるで命綱を切られたように、一気に地面へと落下していく。
「ふたりとも、逃げるよッ」
ネラは叫び、すばやくその場から駆け出した。
エルヴィアとアニスも、それに続く。
後方から騒がしい声が聞こえるが、振り返らずに全力で森を抜ける。
空は赤く色づき、走る三人の影は長く伸びていた。
†
サルディアへ逃げ延びたエルヴィア達は、隠れ家で夜を明かし、その後、砦の町へ帰還した。
「――というわけで、アタシの活躍で無事に調査を終えたってワケ」
ネラは腰に手を当て、得意げな顔をする。
報告を受けたカルスは、鼻を鳴らす。
「ふむ……まあ、無傷で帰ってこれたのは幸運だったかもしれん」
そして、すぐに厳しい顔つきになる。
「予想どおり、魔物を呼ぶ者がいたか。やはり黒い月の仕業だったのか?」
「それなんだけど――」
アニスが応える。
「奴がネラの魔術で浮かんでいた時に、一瞬だけど顔が見えたわ」
カルスは首を傾け、話の続きを促す。
「あれは――ダークエルフよ」
「本当か?」
「ええ。私はエルフの集落でダークエルフを見ている。間違いないわ」
カルスは「そうか」と呟き、腕を組んだ。
「ハイエルフ達に、報告する?」
「……悩ましい問題だ。彼らの事情を考えれば、知らせるべきだろうが――」
もし、このことを伝えれば、ハイエルフ達は戦いに赴くだろう。
「この砦を襲撃したのも魔物だった。それがダークエルフの仕業であれば、奴らと黒い月との繋がりは濃厚だ」
カルスの言うとおり、難しい問題だ。
敵がダークエルフだけであれば、よかった。
ただ、黒い月が絡んでいるとなると、うかつに手を出すのは危険だ。
しかし――
「皆、聞いて」
エルヴィアは口を開く。
「私は、伝えるべきだと思う」
皆がこちらを見る。
「……ここで火種を持ち込めば、今起こっている争いが、より複雑になるのは私も解っているわ。でも――」
エルヴィアは、ハイエルフ達と約束したのだ。
手を取り合い、共に脅威に立ち向かうと――
「もし、約束を違えれば――今まで築いてきた関係は、きっと消えてしまう」
それが一番に恐ろしいことだと、エルヴィアは感じる。
カルスはしばらく黙って聞いていたが、やがて顔を上げた。
「そうだな……俺も近頃は、大きくなったこの町を保つことばかり考えていた」
カルスの表情に、少し疲労が滲んでいる。
集団の先頭に立って、常に決断を迫られる立場というのは、想像を超える重圧がかかるのだろう。
そこはかとなく重い空気を皆が感じ始めた時――
隠れ家の扉が勢いよく開いた。
「こんばんはぁ!」
場違いなまでに朗らかな声を上げて入ってきたのは、ママナだった。
「どうしました? もうお休みの時間ですかぁ?」
事情を尋ねるママナに、カルスが状況を説明した。
「なるほど! では全員殺しましょう! ダークエルフは悪しき存在なので!」
余りにも無茶苦茶な結論に、ネラが吹き出した。
「ママナは相変わらず激しいねぇ……」
真新しい戦鎚を壁に立てかけ、ママナは語りだした。
「ママナは、この闇ギルドに加わってから、毎日考えていました。そして、今、ついに天啓を得たのです!」
ネラが「今……?」と呟くが、ママナは気にせず続ける。
「世の中、悪は星の数ほど存在しますが……」
ママナは言葉を区切り、両腕を横に広げた。
「魔物を呼ぶ輩! これはいけませぇん!」
薄暗い部屋に、大声が響く。
「魔物は悪! その味方も悪! それこそが、ママナの絶対的な理です!」
実に単純な――
それでいて、力強い信念に、なぜだかエルヴィアは救われたような気がした。




