10 夜を屠る闇
「フウッ……ふざけた獣がッ!」
アニスの大剣が振り下ろされる。
狼は斬撃を紙一重でかわし、剣は石畳に打ち当たった。
琥珀色の瞳が妖しく光る。
その目が狼を捉え、再び大剣が持ち上がったと思うと――
アニスの姿が消えた。
狼は、消えたアニスを探す間もなく――
次の瞬間には、背後から頭を叩き割られていた。
短いうめき声を発したきり、狼はその場に崩れ、動かなくなった。
「ハアッ……血、血の臭い――」
アニスが叩きつけた大剣を引き剥がすと、狼の無惨な屍が石畳に転がる。
まるで落石に潰されたように頭部がひしゃげていた。
「フフフ……これが〈神の遺物〉――」
血に塗れたアニスは、笑っていた。
「痛くて苦しくて最低だけど――この力は最高よ」
ぽつり、と水滴が足元に落ちた。
いつの間にか、黒雲が黄昏を覆い隠し、遠雷が聞こえてくる。
荒い息遣いのまま、アニスはゆらりと足を踏み出す。
「〝臭い〟は、あっちの方……」
エルヴィアは、目の前の惨状に震えていたが、パリオに肩を叩かれた。
「行きましょう。気をしっかり持ちなさい――」
†
アニスに追随した先は、城内の広間だった。
雨は激しさを増している。
薄暗い広間を、時折、雷光が白く照らす。
「出てきなさい――ここにいるのは分かっている」
アニスの声が響く。
少し間をおいて、どこからかコツコツと床を叩く音が聞こえてくる。
「同胞か――」
気づけば、アニスの前に、黒尽くめの男が立っていた。
暗がりに、男の顔だけが白く浮かんでいる。
「〝あの男〟の側にいるのは感じていた――そして、人間と行動を共にしている」
よく通る、落ち着いた声だ。
「混血種……私を殺しにきたか」
これが吸血鬼――不死の存在か。
アニスは、担いだ大剣を床に突き立てる。
「分かっているなら話は早い。さっさと殺されなさい」
吸血鬼は、嘲笑するように短く鼻を鳴らす。
「貴様は、なぜ生きる?」
「――なに?」
「昼と夜の間に住み、最も孤独を識る者よ。私を殺してまで、なぜ生き続ける?」
雷鳴――
「私は、お前とお喋りをしにきたんじゃない!」
アニスが大剣を構える。
その〝歯〟は血を求めて蠢いている。
「臭うぞ。欲深き人間が摘み取った罪の果実。そのような力に溺れ、貴様達は、なにを求める?」
血で汚れた大剣が、吸血鬼へ襲いかかる。
しかし、アニスの斬撃は空を切った。
突如――
エルヴィアの目の前に、白い顔が現れる。
飛び退く間もなく、暗闇から伸びた白い手に喉元をつかまれる。
「ううっ……」
物凄い力で締め上げられる。
視界が一気に暗くなった後――急に白い手が首から離れた。
アニスが再び剣を振るい、吸血鬼を掠めたのだ。
「チッ、ちょこまかと――」
エルヴィアは床に崩れ落ち、咳き込む。
苦悶に顔を歪めながらも、自らの影を探した。
(ここなら、力を使える)
吸血鬼が一瞬で姿を消すのは、おそらくアニスと同じ能力だ。
(それなら、〝悪魔の手〟で捕まえる――)
うずくまったまま、ナイフで密かに指を切る。
吸血鬼の位置を確かめ、指輪を血で濡らす――
「むっ!」
影から伸びた〝悪魔の手〟は、吸血鬼のマントを引き裂いた。
だが、完全に捕らえることはできなかった。
「それは〝始祖〟の力……? 面倒なものを――」
吸血鬼が呟く。
よく聞こえなかったが、〝悪魔の手〟のことを知っているらしい。
「ならば――」
再び吸血鬼が姿を消す。
次に現れたのは、パリオの目の前だ。
「魔を退けよ」
パリオの手のひらが吸血鬼に伸びる。
あれは――〈魔除けの聖痕〉だ。
吸血鬼は驚き、パリオから距離を取る。
雷光に晒されたその顔は、微かに歪んでいた。
「もはや、お前に活路はない!」
アニスが大剣を振りかぶって威圧する。
「潔く、この牙の餌食となれッ」
雨の勢いが強まっている。
何度目かの雷鳴が轟いた後、吸血鬼が口を開く。
「貴様を殺せるのは私だけだ。その私を殺せば、終わらぬ苦痛を味わうことになるのだぞ?」
白い顔が、広間の天井を仰ぐ。
「千年の時を生き続け、未だ生きる意味を見いだせぬ。貴様には、その答えが見えるというのか?」
アニスは、吸血鬼へゆっくりと歩み寄る。
そして手にした剣で、その肩口を斬りつけた。
「――これが答えよ」
剣は幾度も、吸血鬼を切り刻む。
「お前を殺すこと、それが私の生きる理由!」
吸血鬼は声すら上げず、ただ忌まわしい〝歯〟に蹂躙される。
威厳に満ちた〝夜の魔〟の姿は、もはや血に塗れた肉塊へと変わってしまった。
そして、アニスの左手が、肉塊の間へ潜り込む。
広間に、獣が嘔吐するような不快な音が響く。
「私はこうして、母をも殺した」
琥珀色の瞳に、もはや理性の光はなかった。
吸血鬼の体内から取り出された心臓は、まだ脈打っている。
それは、飽くなき生への執着に見えた。
「死ね――呪わしき血に塗れて」
鋭い爪が心臓に食い込み、赤黒い血液が辺りに飛び散った。
雷鳴は未だ、暗黒の空を裂いている。
物言わぬ肉塊は、白い灰へと姿を変えていた。




