9 黄昏の下
サルディアの町から魔物が巣食う地、ディードルグを目指す
隠れ家の守備を他のギルドメンバーに任せ、エルヴィア達は町を出た。
「この近くに、ディードルグへ続く〈転送石〉があるわ」
アニスは、その転送石をよく利用していたらしい。
「魔物とかち合う恐れもあるけど、今は少しでも早く城に着きたいから、転送石を使いましょう」
サルディアの西にある森に入る。
アニスの先導で獣道を進むと、やがて苔や蔦に覆われた柵門が見えてきた。
「この奥よ――」
両開きの門扉を押し開けたその先に、〝石の輪〟があった。
転送石に近づくと、辺りに光が満ち、エルヴィアの意識は途切れた。
†
光の先は、洞窟の中だった。
転送石が放つ薄明かりで、周囲の様子は確認できたが、パリオは持ってきた松明に火をつけた。
暗がりを進んでいくと、すぐに出口が見えた。
洞窟を出ると、目の前には森林が広がっている。
「――この近くには魔物がいる。警戒して」
アニスの後ろに、エルヴィアとパリオが三角形を作るように並ぶ。
空は少しずつ黄金色に染まり始めた。
夜になる前に、城に辿り着けるだろうか。
小走りで森の中を進む。
はるか前方、木々の切れ間に、石塔が覗いている。
あれがディードルグ城に違いない。
急ぎたいが、エルヴィアは息が切れ始めた。
思えば、走ることには慣れていない。
少し速度を落とそうとした、その時――
『死を迎えよ』
耳にへばり付くような、陰鬱な声が響く。
エルヴィアは息をのんで、振り返った。
後方から、靄のような炎のような、形の定まらない不気味なものが追ってくるのが見えた。
『死を迎えよ――』
頭の中で、謎の言葉が繰り返される。
「耳を貸しちゃ駄目! とにかく走って!」
アニスの鋭い声で、我に返る。
息が上がり、脇腹が痛み始めていたが、言われるままに走る。
気づけば、隣のパリオの姿がない。
再び振り返ると、謎の靄と対峙している。
「ヴァーガルト卿が!」
エルヴィアが叫ぶが、アニスに肩をつかまれる。
「あれは亡霊よ。聖職者なら、きっと後れを取ることはないわ――先を急ぐわよ」
森の切れ目が見えてきた。
大きな池に囲まれた古城は、目と鼻の先だ。
「城の跳ね橋が下りてる……いつでも入ってこい、ということ?」
アニスは低い声で呟き、跳ね橋に足を乗せる。
「先に私が行って、罠がないか確かめてくる」
日がだいぶ落ちてきた。
辺りは黄昏に染まり、城の影は悪魔の角のように見えた。
無事に橋を渡り終えたアニスが、手招きで合図を送っている。
エルヴィアも跳ね橋を渡り、門の前にたどり着いた。
「パリオを待ちましょう。あまり遅いようなら、私達だけで入るわよ」
短い休息を取ろうとしたのも束の間――
城門の奥から、獣の唸り声が聞こえてくる。
やがて、柱の陰から黒い毛並みの狼が、その身体を覗かせた。
それはまるで石畳から浮き出た影のようで、目だけが赤く光っている。
「クソッ、面倒ね」
アニスが狼と睨み合う。
エルヴィアはナイフを取り出し、影の位置を確かめようと、横目で足元をちらりと見ると――
(影が、ない――)
建物の影と重なって、どこに自分の影があるのか分からない。
これでは〝悪魔の手〟が呼べないのでは――?
「危ないッ」
気づけば、狼がこちらへ突進していた。
避けようにも、もう間に合わない。
時が止まったように、全ての動きがゆっくりになり、狼の赤い目だけが視界に焼き付く。
(駄目だ――)
「うッ」
痛みは、なかった。
おそるおそる、目を開けると――
「あああッ……は、離せッ」
アニスが、エルヴィアと狼の間に割り込んでいた。
彼女の首筋には、狼の鋭い牙が食い込んでいる。
「いっ……痛い、痛いッ」
白い肌が、血で染まっていく。
それは不思議と、絵画のように美しく映った。
燃える夕陽と鮮血が、視界を赤く彩っていく。
(私が……私のせいで)
噴き出す血が、空中に舞っている。
エルヴィアは、その様から目を離せずにいたが――
おかしい。
風など吹いていないのに――
霧状の血は、やがて本当に踊るように渦を巻き始めた。
アニスの体の周りに、赤いつむじ風が起こっている。
あれは――〝あの時〟の赤い瘴気だ。
「ぐっ……うううぅ!」
痛ましい噛み傷から、おぞましい形の〝なにか〟がせり出してくる。
狼の口が、その〝なにか〟に押し上げられ――
そのまま、はね飛ばされた。
「アニス!」
エルヴィアの叫びと狼の悲鳴が、虚空で重なる。
「あれは――」
後ろからパリオの声がした。
「やはり……〝傷〟か」
アニスの傷からせり出したのは――
あの、化け物の〝歯〟だ。
何度斬りつけても、傷口から生え出す、おぞましい〝歯〟だった。
やがて、赤い瘴気は霧散する。
アニスの右手には、鋸のような歯牙に覆われた大剣が握られていた。




