第9話 父の剣は重すぎる
俺は少しずつ成長していた。
首がすわり、寝返りを覚え、座る時間も増えた。
はいはいのような動きも、なんとなく形になってきた。
人間、成長するものである。
前世ではまったく成長していなかった気もするが、今世の俺は違う。
少なくとも、身体的にはかなり順調だ。
そのせいか、グレンの目が日に日に期待を帯びてきた。
怖い。
父親の期待というものは、赤ん坊にも重い。
ある日、グレンは俺を庭へ連れ出した。
空はよく晴れていた。
芝の匂いと、乾いた土の匂いが混ざっている。
遠くでは兵士たちが木剣を振っているが、今日は訓練場の真ん中ではなく、屋敷に近い静かな庭だった。
グレンは大きな手で俺を抱え、芝の上に座らせた。
「レオン」
「あう」
「今日は、剣を見る」
見る。
よかった。
持つではないらしい。
俺は少し安心した。
グレンは腰に差していた剣を抜いた。
本物の剣だった。
銀色の刃が、昼の光を細く返す。
派手な装飾は少ない。
だが、長く使い込まれた道具特有の重みがあった。
柄の革は黒く、グレンの手に馴染んでいる。
父は剣を地面に置き、俺の前に横たえた。
近い。
赤ん坊の目線だと、剣がほぼ建造物である。
「これは、アルベルト家に伝わる剣だ」
グレンは短く言った。
「私が若い頃から使っている」
若い頃から。
つまり、父の過去を見てきた剣ということだ。
刃の根元に、小さな欠けがあった。
俺はそれを見た。
グレンの灰色の目が、ほんの一瞬だけ揺れた気がした。
だが、すぐにいつもの硬い顔に戻る。
「いずれ、お前にも剣を教える」
来た。
また、いずれ、だ。
この言葉は少し苦手である。
ただ、今回は前より胸がざわつかなかった。
怖くないわけではない。
でも、怖いなら言え。
あの父の言葉が、胸のどこかに残っている。
グレンは庭の端から、小さな木剣を持ってきた。
いや、小さな、というのは父基準である。
赤ん坊の俺から見れば十分に大きい。
「持てるか」
持てるか、ではない。
持たせる気だ。
赤ん坊に。
この人、たまに本気で距離感がおかしい。
俺はエレナを探した。
助けて、母さん。
しかしエレナは少し離れたベンチに座り、静かにこちらを見ていた。
「無理はさせないでね」
「ああ」
「本当に?」
「ああ」
不安だ。
グレンの「ああ」は、たまに信用できない。
父は小さな木剣を俺の前に置いた。
「触れるだけでいい」
それなら、まあ。
俺はおそるおそる手を伸ばした。
木剣の柄に指が触れる。
ざらりとした木の感触。
冷たくはない。
俺は少しだけ力を入れた。
動かない。
重い。
めちゃくちゃ重い。
前世の成人男性基準なら大したことはないのかもしれない。
だが、今の俺は赤ん坊である。
木剣というより、倒れた丸太に近い。
俺はさらに力を入れた。
動かない。
むしろ俺の体が前に倒れた。
「あっ」
エレナの声。
グレンの手がすぐに俺の背を支えた。
落ちない。
俺は木剣にしがみつく形になった。
情けない。
剣を握るどころか、剣に抱きついている。
「……まだ早かったか」
グレンが低く言った。
当然である。
早いどころではない。
俺、まだ歯も生えそろってないんだけど。
エレナの口元が、少しだけほどけた。
「あなた、レオンにはまだ重すぎるわ」
「そうか」
「そうよ」
「だが、手は添えた」
「それはそうね」
グレンは少し満足そうだった。
どこに満足要素があったのか分からない。
ただ、木剣に触れた瞬間、俺の中で何かが動いた。
胸の奥の黒い水が、小さく波打つ。
木剣の影が、芝の上に落ちている。
その影の端に、黒い水がにじんだ。
ほんの少しだけ。
それは木剣の柄に絡むと、俺の小さな手を支えるようにまとわりついた。
木剣が、わずかに動いた。
グレンの目が細くなる。
エレナの表情も止まった。
俺は息を止めた。
黒い水は、すぐに消えた。
木剣はまた重くなり、俺の手からずるりと離れる。
グレンは何も言わなかった。
ただ、俺の手を取って、じっと見た。
大きな手と、小さな手。
剣だこのある硬い指と、まだ何も持ったことのない丸い指。
「今のは」
グレンが言いかける。
エレナが静かに首を振った。
「責める顔をしないで」
「していない」
「しているわ」
グレンは黙った。
俺を見る顔が、少しだけ困ったようになる。
父は不器用だ。
俺の力を警戒しているのか。
心配しているのか。
自分でも分かっていないような顔をしていた。
やがてグレンは、俺の手を離した。
「怖かったか」
俺は少し迷った。
言葉はまだうまく出ない。
でも、父は待っていた。
俺は小さく口を開いた。
「こ……」
怖い。
そう言おうとした。
だが、出たのは別の音だった。
「おも……」
グレンが瞬きをした。
エレナも目を丸くする。
俺はもう一度、木剣を見た。
「おも……い」
言えた。
怖い、ではなく。
重い。
父の剣は、重かった。
剣も。
期待も。
この家の名前も。
たぶん、全部重い。
でも、重いと言えた。
グレンはしばらく黙っていた。
それから、口元をほんの少しだけ動かした。
笑ったのかもしれない。
分かりづらい。
「そうか」
グレンは木剣を持ち上げた。
「重いか」
「あう」
「なら、今は持たなくていい」
父は木剣を自分の横に置いた。
「いつか、手を伸ばしたくなったら言え」
俺はグレンを見た。
その言葉は、少し意外だった。
持て、ではない。
手を伸ばしたくなったら。
それは、前世で俺があまり聞いたことのない言葉だった。
やれ。
頑張れ。
期待している。
そういう言葉は、何度も聞いた。
でも、今じゃなくていい、とはあまり言われなかった気がする。
エレナが隣で、静かに俺を見ている。
「よかったわね、レオン」
俺は木剣を見た。
やっぱり重そうだった。
でも、さっきよりは少しだけ怖くなかった。
剣を持てなかった俺を、父は責めなかった。
黒い水が出た俺を、母は離さなかった。
それなら、いつか。
本当にいつか。
俺の方から手を伸ばせる日が来るのかもしれない。




