第8話 黒い水、ちょっと動く
黒い水が出た。
光を出そうとしたら、黒い水が出た。
この事実は、俺に地味な衝撃を与えた。
いや、地味ではない。
かなり衝撃だった。
異世界に生まれ変わったのだから、いつかは魔法を使えるかもしれない。
そんな期待はあった。
エレナの指先にともる、白金色の小さな灯り。
風をそっと動かす魔法。
湯を温める、やわらかな熱。
ああいうものを、自分も少しは使えるのかもしれない。
そう思って手を伸ばした結果、出てきたのが黒い水である。
思っていた魔法と違う。
だいぶ違う。
「レオン、また難しい顔をしているわ」
エレナが俺の頬を指先でそっとつついた。
淡い金髪が肩に流れ、緑色の目がこちらを見ている。
「赤ちゃんは、もう少し何も考えていない顔をしていてもいいのよ」
無茶を言う。
中身がそれなりに人生をこじらせた大人なので、何も考えていない顔は難しい。
というか、光を出そうとして黒い液体が出た直後に、何も考えるなという方が無理だ。
俺はベッドの上で、自分の手を見つめた。
小さい。
丸い。
指も短い。
この手から、あの黒い水が出た。
そう思うと、自分の手なのに少し知らないものに見える。
グレンとエレナの反応を思い返しても、あれは夢ではない。
父はあれから、屋敷の警備を少し増やした。
といっても、俺の部屋に兵士を並べるようなことはしない。
廊下や庭の巡回が、いつもより少し丁寧になっただけだ。
たぶん、俺を怖がらせないようにしている。
グレンなりの気遣いらしい。
顔が怖いので、気遣いが伝わりにくいが。
一方、エレナは変わらなかった。
俺を抱く。
あやす。
魔法灯をともす。
眠る前に、やわらかい声で名前を呼ぶ。
ただ、夜になると、俺のベッドのそばで古い本を読むことが増えた。
表紙には、七つの塔のような紋章が刻まれている。
俺がじっと見ていることに気づくと、エレナはそっと本を閉じた。
「これはまだ、レオンには早いわ」
そう言って、何事もなかったように俺の布団を直す。
いや、母さん。
たぶん俺、見た目ほど赤ん坊ではありません。
もちろん言えない。
赤ん坊は不便である。
その日の昼下がり。
俺はいつものように、ベッドの上で寝返りの練習をしていた。
練習と言っても、ほぼ転がされているだけだ。
エレナが俺を見守っている。
「はい、レオン。もう少しよ」
もう少しと言われても、体が重い。
赤ん坊の体というのは、自分のものなのに思い通りにならない。
腕を動かしたいのに足が動く。
体をひねりたいのに首だけ動く。
前世の俺の人生くらい、制御が効かない。
俺は必死に体をひねった。
すると、ベッドの端から少しずつ体がずれていった。
まずい。
これはまずい。
俺は今、わりと落ちようとしている。
エレナはすぐそばにいる。
たぶん受け止めてくれる。
だが、落ちる直前のあの感覚は普通に怖い。
体が傾く。
視界がずれる。
ベッドの端が近づく。
その瞬間だった。
ベッドの下の影が、ぬるりと動いた。
黒い水が一筋、影の中から伸びる。
それは細い紐のように俺の服の裾に絡み、ほんの少しだけ体を引いた。
俺はベッドの中央へ、ころんと転がった。
沈黙。
エレナが目を丸くしている。
俺もたぶん、目を丸くしている。
今の、何?
便利。
いや、怖い。
便利だけど怖い。
エレナはすぐに俺の体を確認した。
「怪我はない?」
「あー」
「痛いところは?」
「あう」
「……そう。大丈夫そうね」
エレナはほっと息を吐いた。
それから、ベッドの影を見る。
黒い水はもう消えていた。
でも、母は見逃していなかった。
「守ったのね」
エレナが小さくつぶやく。
俺は彼女を見た。
守った。
今の黒い水が?
俺を?
黒い水といえば、夢の中の暗い水面だ。
前世の記憶。
見たくないもの。
胸の奥に沈んだままのもの。
正直、良い印象はない。
でも、さっきの黒い水は、俺を落とさなかった。
引っ張った。
支えた。
ベッドの中央へ戻した。
エレナは俺の手を握った。
「怖がらなくていいわ」
その声は、やわらかかった。
「分からないものは、怖いものね。でも、怖いからといって、全部が悪いものとは限らないわ」
母は俺の目を見た。
「赤ちゃんの泣き声だって、驚くほど大きいでしょう。でも、その声で誰かが気づくこともあるもの」
エレナの指が、俺の小さな手を撫でる。
「この力も、まだ泣き方を覚えている途中なのかもしれないわね」
うまいことを言う。
母親というのは、黒い水すら赤ん坊の泣き声に例えられるらしい。
俺は少しだけ、黒い水を見る目が変わった。
もちろん、怖い。
怖いものは怖い。
でも、さっき俺を引き寄せた感覚は、冷たくなかった。
影の中から伸びた手みたいだった。
その夜。
俺はまた黒い水の夢を見た。
水面は静かだった。
記録者はいない。
代わりに、水の上に文字だけが浮かんでいた。
――微細操作を確認。
――防衛反応、発現。
――名称、未設定。
また事務的だ。
名称、未設定。
そう言われると、ちょっと名前をつけたくなる。
黒い紐。
影の手。
落下防止くん。
だめだ。
全部ださい。
黒い水が、水面で小さく揺れた。
まるで、その名前は嫌だ、と言っているようだった。
俺は少しだけ笑った。
前世の記憶に沈むだけだった黒い水が、今は俺をベッドから落とさないために動いている。
それは、小さな変化だった。
でも、俺にとっては大きかった。
怖いものが、少しだけ自分のものになった気がした。




