第7話 はじめての魔法
帰らず狼の夜から、何日かが過ぎた。
屋敷は、表面上はいつも通りに戻っていた。
侍女たちは朝から静かに動き、厨房からは焼きたてのパンの匂いがする。庭では兵士たちが訓練をしている。夕方になると、魔法灯は何事もなかったように白金色の光をともす。
ただ、少しだけ変わったこともある。
グレンが、前より俺の顔を見るようになった。
もともと見てはいた。
というか、かなり見ていた。
だが、今はただ眺めているというより、何かを確かめるような目になっている。
短く刈った黒髪。
灰色の目。
太い腕。
相変わらず顔は怖い。
その怖い顔が、俺のベッドの横で黙っている。
赤ん坊に無言の圧をかけるのはやめてほしい。
「レオン」
「あー」
「……狼に、何かしたか」
来た。
やっぱり来た。
俺は天井を見た。
知らん顔である。
赤ん坊の特権、無言の回避。
前世で使っていたらだいぶ問題だが、今は合法だ。
グレンはしばらく俺を見ていたが、小さく息を吐いた。
「答えられないか」
答えられない。
物理的にも、精神的にも、かなり答えづらい。
父さん。
実は俺、前世の記憶があります。
黒い水が見えます。
あと記録者とかいう面倒くさい存在にも絡まれています。
そんな自己紹介、赤ん坊じゃなくても無理だ。
グレンは俺の頭に、そっと大きな手を置いた。
剣だこのある硬い手だった。
「怖いなら、言え」
短い声。
「分からないことも、言え。言えないなら、泣け」
俺はグレンを見た。
父は笑っていなかった。
でも、怒ってもいなかった。
「黙って消えられるより、ずっといい」
胸の奥が、少しだけ詰まった。
この人も、何かを失ったことがあるのだろうか。
そんなことを思った。
「あなた」
扉の方からエレナの声がした。
淡い金髪をゆるく結い、薄青の服を着た母が、少し困った顔で立っていた。
「朝からそんな顔で見つめたら、レオンが怖がってしまうわ」
グレンは固まった。
「見つめてはいない」
「そうかしら」
「話していた」
「その顔で?」
グレンは黙った。
少し傷ついている。
たぶん。
俺は気を使って、父の指を握った。
グレンの眉がわずかに上がる。
「握った」
「ええ、よかったわね」
「俺を」
「毎回報告しなくても分かっているわ」
エレナの目元がやわらいだ。
硬くなっていた部屋の空気が、そこで少しほどける。
それから、彼女は俺の前に椅子を引き寄せた。
「今日は、レオンに魔法を見せましょうか」
魔法。
その言葉に、俺は目を開いた。
正直、待っていた。
異世界転生といえば魔法である。
剣と魔法の世界に来ておきながら、これまで俺がやっていたことといえば、泣く、寝る、飲む、たまに父を喜ばせる、くらいだ。
転生特典にしては地味すぎる。
「魔法といっても、難しいものではないわ」
エレナは人差し指を立てた。
白い指先に、小さな光がともる。
火ではない。
もっとやわらかい光だ。
夕方の魔法灯を小さく切り取ったような、白金色の灯り。
「生活魔法よ。灯りをともす、風を起こす、水を温める。暮らしの中で使う、とても身近な魔法」
指先の光が、ふわりと揺れる。
綺麗だった。
前世の蛍光灯やスマホの光とは違う。無理やり照らす光ではない。部屋の隅にそっと置かれた、優しい灯りだった。
「魔法は、強ければいいわけではないの」
エレナは俺を見て言った。
「必要な場所に、必要なだけ届けばいいのよ」
その言い方は、いかにもエレナらしかった。
横でグレンが腕を組む。
「だが、強い魔法が必要な時もある」
「それはそうね」
「剣も同じだ」
「また剣に戻すのね」
「大事だ」
エレナの口元が、少しだけほどけた。
父と母の会話を聞きながら、俺は指先の光を見ていた。
これが魔法。
なら、俺にもできるのだろうか。
黒い水ではなく、普通の魔法が。
俺は小さな手を持ち上げた。
もちろん赤ん坊の手だ。指も短いし、意識した通りに動くとは限らない。
だが、やる気だけはある。
光れ。
そう思った。
光れ。
できれば、エレナみたいに綺麗なやつでお願いします。
俺は必死に手を伸ばした。
すると、指先が少しだけ温かくなった。
来た。
これは来た。
異世界転生、ついに始まった。
俺は期待した。
だが、俺の指先に光はともらなかった。
代わりに、ベッドの端に落ちていた影が、ぬるりと動いた。
黒い水のようなものが、ほんの一滴だけ、布の上を這った。
部屋の空気が止まる。
グレンの灰色の目が細くなる。
エレナの表情も、少しだけ変わった。
俺も固まった。
いや、違うんです。
俺は今、光を出そうとしただけなんです。
影をぬるっとさせるつもりはなかったんです。
ベッドの端の黒い滴は、すぐに消えた。
まるで最初から何もなかったみたいに。
沈黙。
赤ん坊には重すぎる沈黙だった。
先に動いたのはエレナだった。
彼女は俺の手を取ると、やわらかく包み込んだ。
「びっくりしたわね」
その声は、いつも通りだった。
「大丈夫。怪我はないわ」
グレンは何か言いかけたが、エレナが目だけで止めた。
父、止まるのが早い。
「今のは……」
グレンが低く言う。
「あとで話しましょう」
エレナは静かに返した。
その声に、今ここでは言わない、という強さがあった。
俺は自分の小さな手を見た。
光は出なかった。
出たのは、黒い水だった。
どうやら俺は、この世界でも少し普通ではないらしい。
でも、エレナは俺の手を離さなかった。
グレンも、部屋を出ていかなかった。
魔法灯の光は、いつものように淡く揺れている。
黒い水が出たことよりも。
それを見ても、母の手が離れなかったことの方が、俺にはずっと重かった。




