第4話 怖いと言えた日
訓練場の音が、やけに大きく聞こえた。
木剣がぶつかる音。兵士の掛け声。土を踏む音。遠くで馬が鼻を鳴らす音。全部が混ざって、胸の奥に押し寄せてくる。
グレンの腕の中は安全だった。
父の腕は大きくて、温かくて、俺を落とさないようにしっかり支えている。分かっている。ここで俺に危険はない。木剣が飛んでくるわけでもない。今すぐ剣を握らされるわけでもない。
でも、怖かった。
「いずれ、お前もここに立つ」
その言葉が、胸の中で何度も響く。
いずれ。
いつか。
将来。
前世で俺が一番苦手だった言葉たちだ。
今すぐではない。だからこそ、ずっと追いかけてくる。逃げても逃げても、未来の顔をして待っている。
俺はグレンの服を握った。
小さな指が、ぎゅっと布に食い込む。
「レオン?」
グレンの声が近い。
心配している声だった。
やめてくれ。
そんな声を出さないでくれ。
心配されると、逃げたくなる。
優しくされると、見たくない自分が見える。
胸の奥で、黒い水が広がった。
訓練場の景色が遠のいていく。兵士たちの声が水の向こうへ沈む。代わりに見えたのは、古いアパートの玄関だった。
靴が乱れている。安い傘が倒れている。郵便受けには督促状が詰まっている。ドアの向こうから、管理会社の人間が叩く音がする。
「開けてください。お話だけでも」
俺は布団の中にいた。
息を殺していた。
いないふりをしていた。
その次に見えたのは、スマホの画面だった。
『母さんが倒れた。病院に来られるか』
返信欄に、何も打てなかった夜。
黒い水が足元に広がる。
冷たい。
けれど、その奥から母の声がした。
『つらいなら、つらいって言っていいんだよ』
違う。
今はつらいじゃない。
怖いんだ。
期待されるのが怖い。
大事にされるのが怖い。
また裏切るのが怖い。
そう言いたい。
でも、前世の俺は言えなかった。
ずっと、「大丈夫」と言って逃げた。
黒い水の上に、文字が浮かぶ。
――開封条件を確認。
――第一の鍵、恐怖の告白。
――言葉にしてください。
無茶を言うな。
こっちは赤ん坊だぞ。
そう思ったのに、喉の奥が震えた。
現実のグレンの声が、遠くから聞こえる。
「レオン、苦しいのか?」
父は焦っていた。
俺を抱く腕が少し硬くなる。けれど、強く締めるのではなく、落とさないように支えてくれている。
怖い。
父が怖いわけじゃない。
期待が怖い。
大事にされるのが怖い。
帰る場所をもらったことが怖い。
また失うかもしれないことが、怖い。
逃げたい。
また、大丈夫なふりをしたい。
でも、ここで飲み込んだら、きっと何も変わらない。
赤ん坊の舌は重い。唇はうまく動かない。言葉なんて、まだほとんど出せない。
それでも、俺は父の服を握ったまま、息を吸った。
「こ……」
グレンの動きが止まる。
俺は震えながら、もう一度口を開いた。
「こわ……」
喉が痛い。
でも、言葉は止めなかった。
「こわ……い」
言えた。
声にした途端、胸の奥で固まっていたものが少しだけ崩れた。
前世では、最後まで飲み込んだままだった言葉だった。
訓練場の音が消えた。
黒い水が、すっと引いていく。
グレンは何も言わなかった。
怒るかと思った。
情けないと言われるかと思った。
男なら怖がるな、と言われるかと思った。
けれど父は、俺をゆっくり抱き直した。
「そうか」
低い声だった。
でも、さっきまでの硬さはなかった。
「怖かったか」
俺は泣いた。
返事の代わりに、泣いた。
グレンは訓練場に背を向けた。兵士たちに何か短く命じ、屋敷の方へ歩き出す。
「今日は戻る」
その声に、誰も異を唱えなかった。
屋敷の入口で、エレナが待っていた。俺の泣き声を聞いたのだろう。少し不安そうな顔をしている。
「どうしたの?」
グレンは俺を見下ろし、少しだけ困ったような顔をした。
「怖いそうだ」
エレナが目を丸くする。
「レオンが、そう言ったの?」
「ああ」
「そう」
エレナは俺の頬に触れた。
指先がやわらかい。
「怖かったのね」
俺はまた泣いた。
エレナは責めなかった。
グレンも責めなかった。
ただ二人とも、俺が泣き止むまでそばにいた。
その夜、魔法灯はいつもより少しだけ淡く光っていた。
強く照らすのではなく、眠れない子どものために、部屋の隅で静かに待つような光だった。
俺はベッドの中で、ぼんやりとその灯りを見ていた。
怖いと言った。
それだけで、世界が終わると思っていた。
でも、終わらなかった。
父は離れなかった。
母も離れなかった。
俺はその事実を、すぐには信じられなかった。
信じられないまま、少しだけ眠くなった。
まぶたが落ちる直前、黒い水の音がした。
ぽちゃん。
どこかで、小さな鍵が沈む音だった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
今回は、レオンにとってかなり大事な一歩の回でした。
強くなる前に、まずは「怖い」と言えることから始まっています。
次回は、黒い水と記録者について少し触れていきます。




