第3話 首がすわっただけで、ちょっと偉い
生後半年。
俺はついに、首をすわらせた。
いや、冷静に考えれば当たり前の成長なのだろう。赤ん坊はいつか首がすわる。寝返りを打ち、座り、立ち、歩く。人類が長年繰り返してきた、ごく普通の発達過程だ。
だが、当事者になってみると分かる。
首がすわるというのは、革命である。
視界が変わる。見える範囲が増える。世界に対して、ほんの少しだけ自分から向き合えるようになる。これまで天井と母の顔と父の怖い顔くらいしか見えなかった俺にとって、これは大事件だった。
首がすわっただけで、俺はかなり偉い。
できれば誰か表彰してほしい。
「レオン、すごいわね。上手にお顔を上げられるようになったのね」
エレナが本当に表彰してくれた。
優しい。
母親という存在は、首がすわっただけで人間を褒めてくれるらしい。前世の俺にも、この方式を適用してほしかった。朝起きただけで褒められ、ゴミを一つ捨てただけで拍手される世界。たぶん、俺はもう少しまともになれた気がする。
「見事だ」
グレンまで真剣な顔でうなずいている。
いや、父よ。これは戦功ではない。
しかしグレンは本気だった。
「首が強い。将来、剣を振るうにも重要だ」
早い。
剣への接続が早すぎる。
赤ん坊の首すわりから剣術の将来性を見出すのは、さすがに前のめりが過ぎる。
「あなた、まずは寝返りでしょう」
「寝返りも体幹だ」
「何でも訓練に結びつけないの」
エレナが呆れたように笑う。グレンは少しだけ不満そうな顔をしたが、反論はしなかった。
アルベルト家の日常は、だいたいこんな感じだった。
エレナは柔らかく、よく笑う。だが、ただ優しいだけではない。屋敷の侍女たちに指示を出す声は落ち着いていて、迷いがない。客人が来たときの立ち居振る舞いも美しい。生活魔法も驚くほどうまい。
特に、魔法灯を扱うときの手つきが綺麗だった。
夕方、エレナが指先を軽く振ると、部屋の魔法灯が一つずつともる。火をつけるような派手さはない。眠っていた灯りを起こすような、静かな魔法だった。
「光は強ければいいわけじゃないの」
エレナは俺に話しかけるように言った。
「強すぎる光は、かえって目を閉じさせてしまうから」
俺はその言葉を、赤ん坊らしく「あー」と受け止めた。
本当は、少しだけ胸に残った。
見たくないものを無理やり照らす光ではなく、目を開けてもいいと思える光。
この屋敷の魔法灯が好きな理由が、少し分かった気がした。
グレンは相変わらず不器用だった。
俺を抱くとき、毎回少し緊張する。腕は太くて安定しているのに、表情だけが硬い。まるで壊れ物を抱く兵士だ。
「あなた、そんな顔をしたらレオンが怖がるわ」
「普通の顔だ」
「それが怖いの」
グレンは黙った。
たぶん傷ついている。
俺は少し申し訳なくなり、小さな手を伸ばして父の服をつかんだ。
グレンの目が見開かれる。
「エレナ」
「ええ、見ているわ」
「つかんだ」
「そうね」
「俺を」
「そうね」
父はそのまま、しばらく動かなかった。
この人は、たぶん怖い人ではない。
怖い顔の、不器用な人だ。
そう思えるようになってきたころ、グレンは俺を抱いたまま、ふと窓の外を見た。
屋敷の庭の先に、広い土の地面が見える。木の柵に囲まれた場所。使用人たちはそこを、訓練場と呼んでいた。
「レオンに、外を見せてもいいか」
グレンが言った。
エレナは少し考え、それからうなずいた。
「風が強くなければ。あまり長くはだめよ」
「ああ」
父の腕の中で、俺は初めて屋敷の外へ出た。
風が頬に触れる。
土の匂い。草の匂い。遠くで馬が鳴く声。前世のアパートにはなかったものが、一気に流れ込んでくる。
世界は広かった。
赤ん坊の体になってから、俺の世界は部屋と天井とベッドの中に縮んでいた。だけど外に出ると、空が高い。雲が動いている。庭の木々が風で揺れている。
異世界だ。
今さらだが、そう思った。
グレンはゆっくり歩き、訓練場の前で足を止めた。
そこには木剣を振るう兵士たちがいた。掛け声。打ち合う音。土を踏む足音。子守歌とはまったく違う、硬い音の世界。
グレンの腕に、少し力が入る。
「ここは、アルベルトの者が剣を学ぶ場所だ」
俺は訓練場を見た。
兵士たちの動きは鋭い。木剣とはいえ、当たれば普通に痛そうだ。いや、赤ん坊の俺ならたぶん死ぬ。物騒すぎる。
グレンは低い声で続けた。
「いずれ、お前もここに立つ」
その言葉で、胸の奥が少し重くなった。
期待。
また、それか。
もちろん、グレンに悪気はない。父親として、息子の成長を願っているだけだ。強く育ってほしい。自分の後を継いでほしい。家を守れる男になってほしい。
きっと、当たり前の願いだ。
でも俺は、その当たり前が怖かった。
前世でもそうだった。
やればできる。
期待している。
お前なら大丈夫。
そう言われるたびに、俺は少しずつ逃げ場を失っていった。できない自分を見られるのが怖くて、期待を裏切るのが怖くて、結局全部から逃げた。
グレンの腕は温かい。
でも、その温かさが少しだけ怖かった。
訓練場の木剣の音が、遠くで響く。
かん。
かん。
かん。
その音が、胸の奥に打ち込まれる釘みたいに聞こえた。
俺は、父の服を握った。
小さな指に、力が入る。
グレンが気づいた。
「どうした、レオン」
聞かれても、答えられない。
俺は赤ん坊だ。
言葉が出ない。
でも、胸の奥で、黒い水が少しだけ揺れた。




