第2話 赤ん坊、人生二周目にして詰む
赤ん坊の生活は、思っていた以上に過酷だった。
いや、正確に言うと、周りから見れば俺はかなり恵まれている。優しい母がいて、不器用だが愛情深い父がいる。屋敷は広く、部屋は清潔で、食事の心配もない。前世の六畳一間と比べれば、天国みたいな環境だ。
ただし、自由がない。
首が動かない。手足もまともに動かない。寝返りも打てない。言葉も話せない。泣く、寝る、飲む、出す。この四択だけで一日が終わる。
人生二周目にして、俺は早くも詰んでいた。
「レオン、今日もよく飲んだわね」
母、エレナ・アルベルトが俺を抱き上げる。柔らかな金髪が頬に触れて、いい匂いがした。石けんと、乾いた布と、少しだけ花のような匂い。
前世の俺なら、この距離感だけで逃げ出していたと思う。
優しさは苦手だった。優しくされると、自分の汚さが見える気がした。だけど今の俺は逃げられない。赤ん坊だからだ。母親の腕の中から逃亡するには、まず首をすわらせるところから始めなければならない。
逃げ癖持ちに対する世界の対策として、赤ん坊転生はかなり有効だと思う。
「あなた、またレオンを見に来たの?」
エレナが笑いながら言った。
部屋の入口には、父グレン・アルベルトが立っていた。大柄で、肩幅が広く、目つきが鋭い。普通に怖い。赤ん坊目線だと、完全に山だ。動く山。
グレンは咳払いをした。
「たまたまだ」
「たまたま、朝から四回目ね」
「……屋敷の見回りだ」
「この部屋しか見回っていないけれど」
エレナがくすりと笑う。グレンは少しだけ視線をそらした。
怖い顔をしているくせに、父はかなり分かりやすい人だった。
俺が泣くと、誰より先に廊下を歩いてくる。俺が寝ていると、物音を立てないように妙な歩き方をする。俺の小さな手が父の指を握ると、しばらく動かなくなる。
この人、本当に俺の父親なのだろうか。
そう思うたびに、胸の奥が少し重くなる。
俺はまだ、この家の息子でいる資格があるのか分からない。中身は、前世で家族から逃げた男だ。母の最期にも行けなかった男だ。
それでもエレナは俺を抱き、グレンは俺を見に来る。
そのたびに、ありがたいのに、怖かった。
「レオン」
グレンが近づき、大きな指で俺の頬に触れた。
硬い指だった。剣を握る人の指だと思った。小さな赤ん坊の頬に触れるには、少し不器用で、少し怖い。
でも、力は驚くほど弱かった。
「強く育て」
低い声が落ちてくる。
俺は思わず、心の中でつぶやいた。
いや、いきなりハードルが高い。
強く育て、と言われても、こちらは今、首すら自力で支えられない。強さ以前に、げっぷの成功率が日々の課題である。
だが、父の目は真剣だった。
「強く、優しく育て」
その言葉に、エレナが少しだけ目を細めた。
「あなたに似るなら、まず不器用になるわね」
「不器用は悪いことではない」
「そうね。悪いことではないわ」
二人の会話を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。
強く、優しく。
前世の俺から一番遠い言葉だった。
この世界には、魔法がある。
それに気づいたのは、生後しばらくしてからだった。
夕方になると、部屋の壁に取り付けられた小さな灯りが、ふっとやわらかく光る。電気ではない。火でもない。白と金の間みたいな色で、夜を追い払うというより、夜に寄り添うように部屋を照らす。
エレナはそれを、魔法灯と呼んだ。
「この屋敷の魔法灯は古いのよ。昔から、アルベルト家を見守ってくれているの」
見守る灯り。
その表現が、なぜか妙にしっくりきた。
魔法灯は、ただ明るいだけではなかった。俺が激しく泣くと、ほんの少し強く光る。眠りかけると、淡くなる。エレナが疲れた顔をしていると、そっと壁際から照らすように見えた。
もちろん、赤ん坊の俺の錯覚かもしれない。
ただ、俺はその灯りが嫌いではなかった。
前世のアパートの蛍光灯は、冷たかった。部屋の汚れも、積み上がったゴミも、見たくないものまで全部照らした。
この屋敷の魔法灯は違う。
見たくないものを無理やり見せるのではなく、見てもいいと思えるくらいに、そっと照らしてくれる。
そんな灯りだった。
その夜、俺は夢を見た。
黒い水の夢だった。
俺は水面の上に立っていた。いや、立っているというより、沈んでいないだけだった。足元には黒い水が広がり、どこまでも暗い。けれど、完全な闇ではなかった。水の奥に、何かが沈んでいる。
スマホ。
求人誌。
開けなかったドア。
病院までの道。
そして、裏返したままのスマホの画面。
母さん、という表示。
胸が詰まった。
見たくない。
そう思った瞬間、水面が揺れた。
黒い水の向こうに、文字が浮かぶ。
――逃避反応を検知。
――第一層記録、未開封。
――開封条件、未達。
なんだよ、それ。
俺は声を出そうとした。でも、夢の中でも赤ん坊の体なのか、うまく言葉にならない。
水面の奥で、何かがこちらを見ている気がした。
人ではない。
獣でもない。
ただ、記録しているもの。
そんな気配だった。
黒い水が足首に触れる。冷たい、と思った。けれど次の瞬間、ほんの少しだけ温かい匂いがした。
味噌汁の匂い。
炊けた米の匂い。
母が台所に立っていた夜の匂い。
やめろ。
今さら、そんなものを出すな。
俺は逃げようとした。足を引こうとした。けれど赤ん坊の足は動かず、黒い水だけが小さく波打った。
そのとき、遠くでエレナの声がした。
「レオン?」
水面が割れる。
俺は目を覚ました。
部屋は暗く、魔法灯だけが淡く光っていた。エレナが俺の顔を覗き込んでいる。
「怖い夢を見たの?」
俺は答えられない。
ただ、泣いた。
エレナは何も聞かず、俺を抱き上げた。
「大丈夫。ここにいるわ」
その言葉に、また泣いた。
大丈夫かどうかは分からない。
でも、ここにいる。
それだけは、今の俺にも分かった。




