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逃げ続けた男、辺境貴族の赤ん坊に転生する 〜黒水の力と魔法灯の家族に救われ、今度こそ大切なものを俺は守る〜  作者: youmo
第1部 もう一度、家族になる

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第2話 赤ん坊、人生二周目にして詰む

 赤ん坊の生活は、思っていた以上に過酷だった。


 いや、正確に言うと、周りから見れば俺はかなり恵まれている。優しい母がいて、不器用だが愛情深い父がいる。屋敷は広く、部屋は清潔で、食事の心配もない。前世の六畳一間と比べれば、天国みたいな環境だ。


 ただし、自由がない。


 首が動かない。手足もまともに動かない。寝返りも打てない。言葉も話せない。泣く、寝る、飲む、出す。この四択だけで一日が終わる。


 人生二周目にして、俺は早くも詰んでいた。


「レオン、今日もよく飲んだわね」


 母、エレナ・アルベルトが俺を抱き上げる。柔らかな金髪が頬に触れて、いい匂いがした。石けんと、乾いた布と、少しだけ花のような匂い。


 前世の俺なら、この距離感だけで逃げ出していたと思う。


 優しさは苦手だった。優しくされると、自分の汚さが見える気がした。だけど今の俺は逃げられない。赤ん坊だからだ。母親の腕の中から逃亡するには、まず首をすわらせるところから始めなければならない。


 逃げ癖持ちに対する世界の対策として、赤ん坊転生はかなり有効だと思う。


「あなた、またレオンを見に来たの?」


 エレナが笑いながら言った。


 部屋の入口には、父グレン・アルベルトが立っていた。大柄で、肩幅が広く、目つきが鋭い。普通に怖い。赤ん坊目線だと、完全に山だ。動く山。


 グレンは咳払いをした。


「たまたまだ」


「たまたま、朝から四回目ね」


「……屋敷の見回りだ」


「この部屋しか見回っていないけれど」


 エレナがくすりと笑う。グレンは少しだけ視線をそらした。


 怖い顔をしているくせに、父はかなり分かりやすい人だった。


 俺が泣くと、誰より先に廊下を歩いてくる。俺が寝ていると、物音を立てないように妙な歩き方をする。俺の小さな手が父の指を握ると、しばらく動かなくなる。


 この人、本当に俺の父親なのだろうか。


 そう思うたびに、胸の奥が少し重くなる。


 俺はまだ、この家の息子でいる資格があるのか分からない。中身は、前世で家族から逃げた男だ。母の最期にも行けなかった男だ。


 それでもエレナは俺を抱き、グレンは俺を見に来る。


 そのたびに、ありがたいのに、怖かった。


「レオン」


 グレンが近づき、大きな指で俺の頬に触れた。


 硬い指だった。剣を握る人の指だと思った。小さな赤ん坊の頬に触れるには、少し不器用で、少し怖い。


 でも、力は驚くほど弱かった。


「強く育て」


 低い声が落ちてくる。


 俺は思わず、心の中でつぶやいた。


 いや、いきなりハードルが高い。


 強く育て、と言われても、こちらは今、首すら自力で支えられない。強さ以前に、げっぷの成功率が日々の課題である。


 だが、父の目は真剣だった。


「強く、優しく育て」


 その言葉に、エレナが少しだけ目を細めた。


「あなたに似るなら、まず不器用になるわね」


「不器用は悪いことではない」


「そうね。悪いことではないわ」


 二人の会話を聞きながら、俺は小さく息を吐いた。


 強く、優しく。


 前世の俺から一番遠い言葉だった。


 この世界には、魔法がある。


 それに気づいたのは、生後しばらくしてからだった。


 夕方になると、部屋の壁に取り付けられた小さな灯りが、ふっとやわらかく光る。電気ではない。火でもない。白と金の間みたいな色で、夜を追い払うというより、夜に寄り添うように部屋を照らす。


 エレナはそれを、魔法灯と呼んだ。


「この屋敷の魔法灯は古いのよ。昔から、アルベルト家を見守ってくれているの」


 見守る灯り。


 その表現が、なぜか妙にしっくりきた。


 魔法灯は、ただ明るいだけではなかった。俺が激しく泣くと、ほんの少し強く光る。眠りかけると、淡くなる。エレナが疲れた顔をしていると、そっと壁際から照らすように見えた。


 もちろん、赤ん坊の俺の錯覚かもしれない。


 ただ、俺はその灯りが嫌いではなかった。


 前世のアパートの蛍光灯は、冷たかった。部屋の汚れも、積み上がったゴミも、見たくないものまで全部照らした。


 この屋敷の魔法灯は違う。


 見たくないものを無理やり見せるのではなく、見てもいいと思えるくらいに、そっと照らしてくれる。


 そんな灯りだった。


 その夜、俺は夢を見た。


 黒い水の夢だった。


 俺は水面の上に立っていた。いや、立っているというより、沈んでいないだけだった。足元には黒い水が広がり、どこまでも暗い。けれど、完全な闇ではなかった。水の奥に、何かが沈んでいる。


 スマホ。


 求人誌。


 開けなかったドア。


 病院までの道。


 そして、裏返したままのスマホの画面。


 母さん、という表示。


 胸が詰まった。


 見たくない。


 そう思った瞬間、水面が揺れた。


 黒い水の向こうに、文字が浮かぶ。


 ――逃避反応を検知。


 ――第一層記録、未開封。


 ――開封条件、未達。


 なんだよ、それ。


 俺は声を出そうとした。でも、夢の中でも赤ん坊の体なのか、うまく言葉にならない。


 水面の奥で、何かがこちらを見ている気がした。


 人ではない。


 獣でもない。


 ただ、記録しているもの。


 そんな気配だった。


 黒い水が足首に触れる。冷たい、と思った。けれど次の瞬間、ほんの少しだけ温かい匂いがした。


 味噌汁の匂い。


 炊けた米の匂い。


 母が台所に立っていた夜の匂い。


 やめろ。


 今さら、そんなものを出すな。


 俺は逃げようとした。足を引こうとした。けれど赤ん坊の足は動かず、黒い水だけが小さく波打った。


 そのとき、遠くでエレナの声がした。


「レオン?」


 水面が割れる。


 俺は目を覚ました。


 部屋は暗く、魔法灯だけが淡く光っていた。エレナが俺の顔を覗き込んでいる。


「怖い夢を見たの?」


 俺は答えられない。


 ただ、泣いた。


 エレナは何も聞かず、俺を抱き上げた。


「大丈夫。ここにいるわ」


 その言葉に、また泣いた。


 大丈夫かどうかは分からない。


 でも、ここにいる。


 それだけは、今の俺にも分かった。

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