第1話 逃げるのだけは、うまかった
読んでくれる皆様に感謝!
この物語は逃げるのだけは得意だった男が、異世界で赤ん坊からやり直す話です。
主人公は、強くて格好いいだけの人間ではありません。
むしろ最初はかなり情けなくて、弱くて、すぐに考え込むタイプです。
少し自分自身の性格や弱さも重ねながら、
それでも家族や仲間に支えられて、少しずつ前に進んでいく物語にしていきたいと思っています。
魔法、冒険、仲間、成長、少しだけ後悔…
そんな話として読んでいただけたら嬉しいです!
俺は、逃げるのがうまい。
履歴書に書けるなら、特技欄にそう書いていたと思う。
資格、普通自動車免許。 趣味、動画視聴。 特技、逃亡。
……いや、書けるか。
そんなことを書いたら、面接官にその場で落とされる。いや、そもそも面接まで行かない。履歴書の時点で人事部の人がそっと封筒に戻し、「これは見なかったことにしよう」となるに決まっている。
でも、事実だった。
俺は逃げるのがうまかった。怒られそうになったら逃げた。期待されそうになったら逃げた。失敗しそうになったら逃げた。誰かが本気で心配してくれそうになると、その優しさごと怖くなって逃げた。
笑ってごまかすのも得意だった。
「いやあ、俺ってほんとダメなんですよね」
そう言っておけば、相手も深く踏み込んでこない。自分で自分を先に落としておけば、他人に落とされたときの痛みが少しだけ軽くなる気がした。
実際には、そんなもの少しも軽くなっていなかったのだけれど。
その日も、俺は逃げていた。
六畳一間のアパート。湿った畳。流しに積んだカップ麺の容器。床に転がるペットボトル。コンビニ袋。開いたままの求人誌。表紙には大きく、「未経験歓迎」「新しい一歩を応援」と書かれていた。
応援されても困る。
こっちは新しい一歩どころか、布団から出る一歩目でつまずいている。
机の上には、自己啓発本もあった。
『人生は今日から変えられる』
いい言葉だ。たぶん本当にそうなのだろう。変えられる人間は、今日から変えられる。明日からでも、来週からでも、きっと変えられる。
ただ、俺は変えられなかった。
スマホが震えた。
画面には、母さん、と表示されている。
俺はその画面を見て、すぐに裏返した。
「はい、出ませーん」
誰もいない部屋で、軽く言った。
言わないと、息が詰まりそうだった。
母からの電話は、いつも優しかった。
「ご飯、ちゃんと食べてる?」 「仕事は、無理しなくていいからね」 「つらかったら、一回帰ってきてもいいんだよ」
責められたことは、ほとんどない。
だからこそ、きつかった。
怒られた方がまだ楽だった。怒鳴られたら、こっちも反発できる。「うるせえな」と思える。「俺のことなんて分かってないくせに」と言える。
でも母は、責めなかった。
ただ、心配した。
その優しさが、俺には鏡みたいだった。
母が優しくすればするほど、そこに映る自分が見えてしまう。大学を辞めたことを言えなかった自分。働くと言って続かなかった自分。仕送りだけ受け取って、電話には出ない自分。
見たくなかった。
だから、見ないふりをした。
スマホはしばらく震えて、やがて静かになった。
俺は裏返したままのスマホを見ないようにして、布団に転がった。
天井には、薄い染みがあった。雨の日になると少し濃くなる。大家に言わなきゃな、と思いながら、もう何か月も言っていない。
そういうことだけが、俺の部屋には増えていった。
言わなきゃいけないこと。 やらなきゃいけないこと。 返さなきゃいけない連絡。
全部、見ないふりをして積み上げた。
その山の下で、俺は息をしていた。
昔から、最初はうまくやれる子どもだった。
テストはそこそこできた。先生にも褒められた。母はいつも嬉しそうに笑った。
「すごいね」 「やっぱり、あなたはやればできる子だね」
その顔が好きだった。
だから、俺はできる子のふりをした。
本当は努力が好きだったわけじゃない。負けるのが怖かっただけだ。期待されて、できなくなって、がっかりされるのが怖かった。だから、できる範囲でだけ頑張った。頑張っているように見える場所にだけ立った。
大学に入って、すぐに分かった。
世の中には、本当に努力できる人間がいる。
朝から講義に出て、バイトもして、資格の勉強もして、友達とも笑って、将来のことまで考えている。そういう人間が、普通に歩いていた。
俺はそこで、折れた。
折れた、と言うと大げさかもしれない。
でも俺の中の、できる子のふりを支えていた細い棒みたいなものは、そこでぽきっといった。
講義に出なくなった。部屋から出なくなった。大学を辞めた。親には言えなかった。
朝になると、大学へ行くふりをして家を出て、駅前のネットカフェに入った。夕方になると、何食わぬ顔で帰った。
母は、たぶん気づいていた。
ある夜、台所で洗い物をしていた母が、背中を向けたまま言った。
「つらいなら、つらいって言っていいんだよ」
俺は笑った。
「別につらくないし。大丈夫」
声が少し裏返った。
母は振り返らなかった。ただ、「そっか」とだけ言った。
あのとき、俺は言えばよかったのだ。
つらい。 怖い。 もう無理だ。
たったそれだけの言葉が、どうしても出なかった。
だから俺は家を出た。自立したかったわけじゃない。ただ、優しい目から逃げたかった。
それから数年、俺は何者にもならなかった。
バイトは続かなかった。正社員の面接は怖くて行けなかった。日雇いの仕事をして、少し金が入ると部屋にこもった。
たまに、母から電話が来る。
俺は出ない。
たまに、兄からメッセージが来る。
俺は返さない。
それでも家族は、完全には俺を捨てなかった。
そのことが、余計につらかった。
いっそ見捨ててくれた方が楽なのに、と思ったこともある。最低だ。自分でもそう思う。
でも本当は、見捨てられるのも怖かった。
俺は、そういう人間だった。
ある日、兄からメッセージが来た。
『母さんが倒れた。病院に来られるか』
画面を見た瞬間、喉が詰まった。
行かなきゃいけない。
それは分かった。考えるまでもなかった。母が倒れた。病院にいる。息子なら行く。当たり前だ。普通は行く。
でも、体が動かなかった。
何を着ていけばいい。 髪、切ってない。 風呂、昨日入ってない。 兄に何て言われる。 父はどんな顔をする。 母に、何て言えばいい。
心配より先に、そんなことが頭に浮かんだ。
最低だ。
最低だと分かっているのに、指が動かなかった。
スマホの画面には、返信欄が開かれていた。
『今から行く』
そんな短い文字も打てなかった。
打ったら、本当に行かなきゃいけなくなる。
そう思った瞬間、胃の奥がぎゅっと縮んだ。
俺はスマホを置いた。布団をかぶった。息を殺した。
子どもみたいに。
いや、子どもよりひどい。
子どもだって、泣きながら母親のところへ走るだろう。
俺は走らなかった。
その夜、母は死んだ。
通夜にも行かなかった。
葬式にも行かなかった。
兄から短いメッセージが来た。
『お前はもう、家族じゃない』
当然だと思った。
当然なのに、涙が出た。
俺は布団の中で声を殺して泣いた。誰にも見られない場所でだけ、俺は一丁前に悲しんだ。
謝りに行くことも、怒られに行くこともできなかった。
母の顔を見ることすらできなかった。
最後まで、逃げた。
それから先の人生は、余白みたいなものだった。
生きてはいた。息もしていたし、飯も食った。コンビニで弁当を買い、動画を見て、眠って、たまに働いた。
でも、どこかで終わっていた。
俺は、自分の人生から少し離れた場所に立っていた。目の前でどうでもいい映画が流れていて、それをぼんやり見ているような感覚だった。
管理会社の人間が家賃のことでドアを叩いた日も、俺は布団の中で息を止めた。
「開けてください。お話だけでも」
ドアの向こうで声がした。
俺は開けなかった。
開けたら、話さなきゃいけない。
話したら、自分がどれだけ終わっているかを認めなきゃいけない。
それが怖かった。
俺は布団の中で、また逃げた。
逃げるのだけは、本当にうまかった。
死んだのは、雨上がりの夜だった。
コンビニに行く途中だったと思う。
腹が減った。冷蔵庫には何もない。財布には千円札が一枚。いつものように、弁当と安い酒を買うつもりだった。
道路は濡れていて、街灯の光がにじんでいた。
交差点の近くで、ランドセルを背負った男の子がしゃがみこんでいた。何かを拾おうとしているようだった。
その向こうから、車が来た。
最初は普通に走っているように見えた。でも、少しだけおかしかった。速度が落ちない。車体がふらついている。歩道側へ寄ってくる。
男の子は気づいていない。
俺は固まった。
まただ。
体が動かない。
頭の中で、嫌なほど冷静な声がした。
間に合わない。 俺が行っても無駄だ。 誰かが叫べばいい。 別に俺じゃなくてもいい。
そうやって、いつもの逃げ道が一瞬で並んだ。
そのとき、母の声がした気がした。
『つらいなら、つらいって言っていいんだよ』
違う。
今じゃない。
そんな優しい声を、今さら思い出すな。
車が近づく。
男の子が振り返る。
目が合った。
ああ、と思った。
俺はこのまま見ているのか。
また、見なかったことにするのか。
母の病院に行かなかったみたいに。 葬式に行かなかったみたいに。 ドアを開けなかったみたいに。
これも、布団をかぶってやり過ごすのか。
「くそ……」
足が動いた。
正義感ではない。
勇気でもない。
たぶん、半分はやけくそだった。
でも、もう半分は。
これ以上、自分を嫌いになりたくなかった。
「くそ、くそ、くそっ……!」
走った。
情けない走りだったと思う。運動なんてまともにしていない。足はもつれるし、息はすぐ上がった。
それでも、走った。
「こっち来い!」
男の子の腕をつかんで、歩道の奥へ突き飛ばす。
男の子が転がる。
泣き声が聞こえた。
よかった。
そう思った次の瞬間、世界が横に折れた。
音がした。
体が、何かに弾かれた。
痛い、というより、何が起きたのか分からなかった。地面が近い。雨の匂いがする。口の中に鉄の味が広がる。
誰かが叫んでいる。
男の子が泣いている。
よかった。
生きている。
それだけで、なぜか少しだけ安心した。
俺は仰向けになって、にじんだ街灯を見ていた。
寒い。
息がうまく吸えない。
救急車の音が、遠くから聞こえた気がした。
間に合うのだろうか。
たぶん、間に合わない。
俺は、なぜか母のことを思い出していた。
病院のベッドにいるはずだった母。
通夜の写真の中にいたはずの母。
最後まで会いに行かなかった母。
「……かあ、さん」
声になっていたかは分からない。
喉の奥から、血と一緒に何かがこぼれた。
「ごめ……」
足りない。
そんな言葉じゃ足りない。
何年も逃げた。電話にも出なかった。病院にも行かなかった。葬式にも行かなかった。
謝る資格なんてない。
それでも、最後に出てきたのは、その言葉だった。
「ごめんっっ……」
視界が暗くなっていく。
死ぬのは怖かった。
怖い。
でもそれ以上に、思った。
もう一回だけ。
もう一回だけでいい。
誰かにちゃんと、ただいまって言える人生がほしい。
そこで、俺の人生は終わった。
――はずだった。
水の音がした。
ぽちゃん、と何かが落ちるような音。
次に聞こえたのは、女の人の声だった。
「泣かないわね、この子」
知らない声だった。
でも、ひどく優しい声だった。
「大丈夫なのか?」
今度は男の声。低い。かなり焦っている。声だけで分かる。不器用なタイプだ。
「息はしています。少し静かなだけです」
静かなだけ、ではない。
こっちは状況が分からなすぎて、声の出し方を忘れているのだ。
目を開けると、ぼやけた天井が見えた。
木の梁。白い布。揺れる灯り。
病院ではない。
アパートでもない。
ていうか、目線が低い。
体が動かない。
手を上げようとして、視界に小さな手が入った。
小さい。
ふっくらしている。
どう見ても赤ん坊の手だ。
…………。
いやいやいやいやいや。
待て。
さすがに待て。
俺は死んだ。たぶん死んだ。車にひかれて、血を吐いて、母に謝って、それで終わったはずだ。
なのに、なぜ俺は赤ん坊になっている。
流行りのやつか。
異世界転生か。
いや、俺みたいな人間にも適用されるのか、それ。
もっと勇者っぽい人材を選んだ方がよくないですか。
資格、普通自動車免許。 趣味、動画視聴。 特技、逃亡。
異世界側の人事、大丈夫か?
「静かね」
女の人が俺を抱き上げた。
顔が近づく。
金色に近い柔らかな髪。薄い青の目。疲れているのに、こちらを見る表情だけはあたたかい。
その人は、俺を胸に抱き寄せた。
「よかった……生きてる……」
その一言で、喉の奥が熱くなった。
生きてる。
そう言われて、俺はようやく、自分が本当に生きているのだと分かった。
同時に、怖くなった。
この人は知らない。
自分が抱いている赤ん坊の中身が、三十年以上逃げ続けた男だなんて知らない。
この人は知らない。
その子は将来、電話に出ないかもしれない。病院に来ないかもしれない。葬式にも来ないかもしれない。
優しくしても、逃げるかもしれない。
そう思った瞬間、涙が出た。
赤ん坊の体は便利だ。
泣いても、理由を聞かれない。
俺は声を上げて泣いた。
「ああああああっ!」
「あら、泣いた」
「泣いたぞ!」
男の声がやたら嬉しそうに響いた。
「元気だ! エレナ、元気だぞ!」
「ええ、あなた。聞こえています」
エレナ。
それが、この人の名前らしい。
男がこちらを覗き込んだ。
大柄な男だった。黒に近い茶色の髪。目つきが鋭い。正直、赤ん坊から見ると山賊の中ボスくらい迫力がある。
でも、その目は泣きそうだった。
男は不器用な手つきで俺の頬に触れた。
「レオン」
低い声で、そう言った。
「レオン・アルベルト。俺たちの息子だ」
レオン。
それが、今の俺の名前。
俺は、レオン・アルベルトになった。
家族を、また与えられた。
ありがたい、より先に、ずるいと思った。
俺は前の家族から逃げたのに。
母の優しさを捨てたのに。
それなのに、また最初から、こんなにあたたかい場所をもらってしまった。
怖い。
今度こそ大事にしたいと思うほど、怖い。
また壊したらどうしよう。
また逃げたらどうしよう。
また、誰かを泣かせたらどうしよう。
エレナが俺の小さな手を包んだ。
「レオン。ここが、あなたのおうちよ」
おうち。
家。
帰る場所。
俺はその言葉を、うまく受け取れなかった。
でも、手だけは動いた。
小さな指が、エレナの服をぎゅっと掴む。
「あら。握ってくれたの?」
エレナが笑った。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥で何かが鳴った。
かちり。
鍵が開くような音だった。
耳の奥ではない。
頭の中でもない。
もっと深い場所。
俺が、ずっと見ないふりをして沈めてきた場所から、音がした。
視界の端に、黒い水が見えた気がした。
アパートの床ではない。
病院の廊下でもない。
どこか、暗い水面。
その上に、文字が浮かんだ。
――未練を確認しました。
――逃避記録、第一層を開放します。
――権能名、未定。
文字はすぐに消えた。
だが、俺には分かった。
これは祝福ではない。
ご褒美でもない。
前世で置いてきたものが、俺を追いかけてきたのだ。
母の電話。 病院への道。 兄のメッセージ。 開けなかったドア。 言えなかった言葉。
全部、消えていない。
俺は転生した。
けれど、逃げた記憶まで生まれ変わったわけではなかった。
エレナの服を掴む手に、力が入る。
もう逃げない、なんて立派なことは言えない。
俺は逃げる。
たぶん、これからも怖くなったら逃げたくなる。
でも。
同じ逃げ方だけは、もうしたくなかった。
また家族をもらったなら。
今度は、ちゃんと帰ってきたい。
ただいまって、言える人間になりたい。
俺は泣きながら、エレナの服を握りしめた。
父が慌てている。
母が笑っている。
知らない家の灯りが、やわらかく揺れている。
俺は、レオン・アルベルト。
前世で全部から逃げた男だ。
これは、そんな俺が英雄になる話ではない。
世界を救う話でもない。
まずは、目の前の一人から逃げない。
そこから始める、情けない男の二度目の人生だ。
1話目読んでいただきありがとうございます。
逃げ続けた男が、もう一度だけ人生をもらう話です。
情けない主人公ですが、少しずつ前に進ませていきたいと思っています。
ここから、レオン・アルベルトの二度目の人生が始まります。
面白いと思っていただけたら、ブックマークや評価で応援してもらえると嬉しいです!




