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逃げ続けた男、辺境貴族の赤ん坊に転生する 〜黒水の力と魔法灯の家族に救われ、今度こそ大切なものを俺は守る〜  作者: youmo
第1部 もう一度、家族になる

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第5話 帰ってこい

 その夜、俺はまた黒い水の夢を見た。


 前と同じように、足元には黒い水が広がっている。だが、今回は少し違った。水面の上に、小さな鍵が浮いている。


 古い鍵だった。


 鉄でできているようにも見えるし、黒い水でできているようにも見える。形ははっきりしているのに、輪郭だけがゆらゆらと揺れていた。


 俺が手を伸ばすと、鍵はひとりでに沈んだ。


 ぽちゃん。


 水面に波紋が広がる。


 その波紋の向こうに、誰かが立っていた。


 顔は見えない。黒い外套をまとっているようにも、ただ影が人の形をしているようにも見える。


 そいつは、淡々とした声で言った。


「第一の鍵、確認。恐怖の告白。開封条件を一部達成」


 俺は思った。


 出た。


 絶対に面倒くさいタイプの説明役だ。


 そいつはこちらを見ている気がした。


「心の声が漏れている」


 漏れるのかよ。


「ここはお前の記録領域だ。思考と発話の境界は曖昧になる」


 便利なようで不便すぎる。


 俺は自分の体を見下ろした。夢の中なのに、まだ赤ん坊だった。手は小さいし、足も短い。威厳も何もない。


 せめて夢の中くらい、前世の姿に戻してくれてもいいのではないか。


「現在のお前は、レオン・アルベルトだ」


 影は淡々と言った。


「記録は現在の器に紐づいている」


 説明ありがとう。全然分からない。


「理解は後でいい」


 投げた。


 影は少し沈黙した。もしかすると、呆れているのかもしれない。


「私は記録者」


 やっぱり面倒くさい名前だった。


「お前の逃避記録を管理するものだ」


 逃避記録。


 その言葉に、胸の奥が少し冷えた。


 記録者は続ける。


「扉は、逃げたお前を責めるためにあるのではない」


 黒い水の奥で、何かが揺れた。


 アパートの玄関。


 母の電話。


 病院までの道。


 見たくないものばかりが、水の底で眠っている。


「責めるためではないなら、何のためだ」


 言葉になった。


 赤ん坊の口ではなく、夢の中のどこかから出た声だった。


 記録者は答えた。


「帰るためだ」


 その一言は、黒い水の上に静かに落ちた。


 波紋が広がる。


「本当に問題なのは、逃げたことではない。帰らなかったことだ」


 俺は何も言えなかった。


 逃げたことではない。


 帰らなかったこと。


 その言葉は、責められるよりきつかった。逃げたことを責められれば、俺はたぶん言い訳できた。怖かった。無理だった。どうしようもなかった。そうやって逃げられた。


 でも、帰らなかったこと。


 その言葉には、言い訳がしづらい。


 逃げてもよかったのかもしれない。


 でも、戻ることはできたのかもしれない。


 電話を一本することも、病院に行くことも、葬式の後にでも墓前に立つことも、本当はできたのかもしれない。


 できなかったのではなく、しなかった。


 黒い水が、足元で静かに揺れた。


「説教か」


「記録だ」


「便利な言い方だな」


「便利だから使っている」


 この記録者、意外と性格が悪い。


 だが、不思議と嫌いにはなれなかった。


 記録者は黒い水の向こうへ視線を向けた。


「外に来ている」


 外?


「帰らず狼」


 聞いたことのない言葉だった。


 だが、その名前を聞いた瞬間、黒い水が冷たくなった。


「群れに帰れなかった獣。帰り道を失い、黒水を飲んだ魔獣だ」


 水面に、狼の影が映る。


 痩せた体。濡れた毛。赤黒い目。口元から黒い水が垂れている。


 その姿は恐ろしかった。


 だが、同時にひどく寂しそうだった。


「屋敷に入れば、人を襲う」


 記録者が言った。


「お前にできることは少ない。今のお前は赤子だ」


 それはそう。


 あまりにもそう。


「だが、声は届く可能性がある」


 声。


 赤ん坊の声で、魔獣に何を言えというのか。


 記録者は俺を見た。


「逃げるな、ではない」


 黒い水の奥で、狼の影が揺れる。


「帰ってこい、と言え」


 その瞬間、夢が割れた。


 俺は目を覚ました。


 部屋は夜だった。魔法灯が淡く光っている。いつもと同じ部屋。いつもと同じベッド。


 でも空気が違った。


 冷たい。


 窓の外で、何かが塀を越える音がした。


 がり、と石を削るような音。


 次に、低いうなり声。


 体が震えた。


 怖い。


 当たり前だ。赤ん坊で魔獣襲来とか、難易度設定がおかしい。せめてチュートリアル期間くらい用意してほしい。


 廊下の向こうで足音がした。


 グレンだ。


 その足音は速い。迷いがない。


 エレナの声も聞こえた。静かだが、硬い。


 屋敷が起きていく。


 魔法灯が、一つ、また一つと光を強めた。


 俺は息を吸った。


 喉が震える。


 記録者の声が頭の奥に残っている。


 逃げるな、ではない。


 帰ってこい、と言え。


 無茶だ。


 本当に無茶だ。


 でも、俺はもう知っている。


 怖いと言っても、世界は終わらなかった。


 なら、次は。


 俺は小さな体を震わせながら、窓の外へ向かって叫んだ。


「かえって……こい!」


 赤ん坊の舌で、ぐちゃぐちゃの言葉だった。


 それでも、言った。


 その瞬間、屋敷の魔法灯が、一斉に揺れた。

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