第19話 ロウ村へ
屋敷の外へ出ることになった。
正確には、ようやく許可が出た。
三歳になり、木剣を持ち、転び、泣きはしなかったがかなり痛い思いをして、それでも何度か稽古を続けた。
それから、また季節が少し進んだ。
俺は以前より歩けるようになった。
走るとまだ危ない。
段差は相変わらず敵だ。
木剣はまだ少し長い。
だが、庭の中ならそこそこ動ける。
それを見たセラが、ある日言った。
「外、行かないの?」
庭の端で、俺は木剣を両手で握っていた。
バルドに言われた通り、足を開き、肩の力を抜こうとしているところだった。
抜けているかは分からない。
たぶん抜けていない。
「そと」
「うん。門の向こう」
セラは当たり前のように言った。
門の向こう。
その言葉だけで、胸の奥が少しざわついた。
俺は門の方を見る。
アルベルト家の屋敷は、広い庭に囲まれている。
庭の外には石の門。
門の向こうには、木々と道。
そこから先は、俺の知らない場所だった。
この世界に生まれてから、俺はほとんど屋敷の中と庭しか知らない。
家族。
使用人。
兵士。
セラ。
リュミエール家の人々。
俺の世界は、思っていたより小さい。
「行きたい?」
セラが聞く。
俺は少し黙った。
行きたい。
その気持ちはある。
でも、怖い。
屋敷の外には、俺の知らないものがある。
人がいる。
声がある。
道がある。
うまく歩けないかもしれない。
転ぶかもしれない。
黒水が勝手に反応するかもしれない。
俺は木剣を握る手に力を入れた。
指先が少し震える。
「……みたい」
なんとか、そう言った。
セラの顔が明るくなる。
「じゃあ、行こう」
軽い。
軽すぎる。
お前の中では、世界はそんな簡単に開くのか。
「だめ」
「なんで?」
「ちち」
「グレン様?」
「あい」
父が許すわけがない。
そう思っていた。
だが、思っていたより早く許可は出た。
夕食後、エレナが話を切り出した。
「ロウ村へ、少しだけ行ってみてもいい頃かもしれませんね」
食堂の空気が止まった。
俺はスプーンを持ったまま固まる。
グレンが顔を上げた。
「早い」
即答だった。
予想通りである。
エレナは静かに微笑んだ。
「門の外へ一歩も出さないままでは、外を怖がるだけになってしまいます」
「怖がって悪いことはない」
「ええ。怖がることは大事です」
エレナはそこで俺を見る。
「でも、知らないまま怖がるのと、見たうえで怖いと分かるのは違います」
グレンは黙った。
父は反論できない時、顔がさらに怖くなる。
俺はスープを見つめた。
何も言わない方がいい。
これは大人同士の話し合いだ。
オスカーが静かに口を開いた。
「ロウ村であれば、距離も近く、顔見知りも多くおります。バルドを同行させれば危険は少ないかと」
バルドは席の端で胸を叩いた。
「お任せください。坊ちゃまが転ぶ前に受け止めますぞ」
そこは転ばないようにしてほしい。
グレンはまだ黙っていた。
エレナは少しだけ声をやわらげる。
「あなた」
グレンの眉が動いた。
「見せてあげましょう。屋敷の外にも、レオンを待ってくれている人がいることを」
その言葉に、グレンの目が少し変わった。
父は俺を見た。
「行きたいのか」
低い声。
俺はスプーンを置いた。
手が少し汗ばんでいる。
怖い。
でも。
「……みたい」
声は小さかった。
それでも、ちゃんと出た。
「そと、みたい」
グレンはしばらく俺を見ていた。
それから、短く息を吐いた。
「バルド」
「はい」
「離れるな」
「もちろんです」
「オスカー」
「はい」
「道順と人員を確認しろ」
「承知いたしました」
グレンは最後に俺を見た。
「勝手に走るな」
「あい」
「知らないものに触るな」
「あい」
「バルドの言うことを聞け」
「あい」
「セラに引っ張られすぎるな」
それは難しい。
俺が黙ると、グレンの目が細くなった。
「あい」
言った。
言わされた。
エレナが少し笑った。
父は怖い顔のままだったが、許可は出た。
翌日。
セラは朝から来た。
早い。
予定を知ってからの行動が早すぎる。
「レオン、行くよ!」
玄関で白いリボンが揺れている。
俺はエレナに外套を着せてもらっていた。
誕生日にもらった外套だ。
少し大きかったはずなのに、今はだいぶ馴染んでいる。
木剣は腰には差さない。
まだ早い。
バルドにそう言われた。
代わりに、小さな布袋を持たされた。
ニナが縫ったものだ。
中には水筒と、マーサが入れた小さな焼き菓子。
「坊ちゃま、途中でお腹がすいたら食べてくださいね!」
ニナは目を潤ませながら言う。
遠足か。
いや、ほぼ遠足である。
オスカーは玄関横で最終確認をしていた。
「同行者は、バルド、護衛二名、セラ様側の護衛一名。移動は徒歩。目的地はロウ村中央通りおよびパン屋周辺まで。滞在時間は長くても一刻以内」
管理が細かい。
だが、少し安心する。
前世の俺は、予定が曖昧だと逃げたくなった。
今は違う。
決まっている方が、少し動きやすい。
グレンは門の近くに立っていた。
見送りに来ている。
顔が怖い。
だが、昨日よりは少しだけましだ。
「レオン」
「あい」
父は俺の外套の紐を見た。
少しゆるんでいたらしい。
黙って結び直す。
指が太い。
なのに、結び方は丁寧だった。
「転ぶな」
「あい」
「転びそうなら言え」
「あい」
「無理なら戻る」
「あい」
父はそれ以上言わなかった。
俺は小さく頭を下げた。
「いって、きます」
言ってから、自分でも少し驚いた。
グレンも一瞬動きを止めた。
エレナがそっと口元に手を当てる。
バルドが目を丸くする。
セラが俺の顔を覗き込む。
「今の、上手」
「う」
グレンはしばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「ああ」
短い。
でも、それだけで十分だった。
門が開いた。
音がした。
重い木と金具が動く音。
その向こうに、道があった。
屋敷からロウ村へ続く道。
土の匂いがする。
庭の芝とは違う。
風も違う。
少しだけ湿っていて、少しだけ広い。
俺は門の前で足を止めた。
手が震える。
外套の端を握った。
「レオン」
セラが横に立つ。
「怖い?」
俺は答えなかった。
怖い。
でも、見たい。
バルドが俺の後ろに立った。
「ゆっくりでいいですぞ」
その声で、少し息ができた。
俺は一歩、門の外へ出た。
土の感触が靴の裏に伝わる。
庭より柔らかい。
少し沈む。
でも、立てた。
俺は顔を上げた。
道の先には、小さな村が見える。
屋根。
煙突。
畑。
低い柵。
人の声。
ロウ村。
俺がまだ知らない、屋敷の外の場所。
歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
セラが隣を歩く。
バルドが後ろにいる。
護衛たちの足音も聞こえる。
怖くないわけじゃない。
でも、屋敷の門はもう後ろにある。
少しだけ進んだだけなのに、世界が広くなった気がした。
ロウ村に近づくと、まず匂いが変わった。
土の匂い。
草の匂い。
家畜の匂い。
煙の匂い。
そして、焼きたてのパンの匂い。
腹が鳴りそうになった。
「パン屋さん」
セラが言った。
「おいしいよ」
「しってる?」
「うん。前に食べた」
セラは得意そうだった。
なぜお前が勝ち誇る。
村の入り口に近づくと、人々がこちらに気づいた。
「あら、坊ちゃま?」
「レオン様じゃないか」
「大きくなられたねえ」
声が飛んでくる。
多い。
視線が多い。
俺は思わずバルドの足元に隠れそうになった。
だが、隠れる前にセラが言った。
「レオン、顔」
「う」
「変」
こんな時まで言うな。
でも、その一言で少し力が抜けた。
村の人たちは笑っていた。
怖がってはいない。
珍しがっている。
歓迎している。
バルドが豪快に手を上げた。
「今日は坊ちゃまの初ロウ村ですぞ!」
「おお!」
「そりゃめでたい」
「パン持っていきな!」
なぜか盛り上がった。
やめてほしい。
俺は見世物ではない。
しかし、嫌な感じはしなかった。
人の声がある。
前世では避けていたもの。
今は、少し眩しい。
パン屋の前で、ふくよかな女性が手を振っていた。
「いらっしゃいませ、坊ちゃま」
店の奥から、甘い匂いがする。
その女性の後ろから、小さな女の子が顔を出した。
丸い頬。
栗色の髪。
パンの粉が少しだけ頬についている。
女の子は、俺を見ると目を丸くした。
「ぼっちゃま?」
舌足らずな声。
俺は少し緊張した。
同年代の子ども。
いや、少し上かもしれない。
今まで、セラ以外の子どもとまともに関わってこなかった。
どうすればいい。
挨拶か。
何と言えばいい。
俺が固まっていると、セラが横から言った。
「レオンだよ」
勝手に紹介された。
女の子は俺を見て、にこっと笑った。
「リタ」
自分の胸に手を当てる。
「リタ」
俺は繰り返した。
リタは嬉しそうに笑った。
「パン、いる?」
いきなりだった。
俺は思わずセラを見た。
セラはなぜか少し得意そうにうなずく。
「もらえば?」
いいのか。
リタは小さなパンを半分に割って、俺に差し出した。
温かい。
手の中に、焼きたての匂いが広がる。
「あ、りがと」
俺が言うと、リタは目を輝かせた。
「しゃべった」
しゃべる。
一応しゃべる。
かなり少ないが。
リタは嬉しそうに、自分の分のパンをかじった。
俺も少し食べる。
甘い。
柔らかい。
屋敷のパンとは違う。
少し不揃いで、少し焦げていて、でも温かい。
屋敷の外の味がした。
「おいしい?」
リタが聞く。
「あい」
リタは満足そうに笑った。
その笑顔を見て、俺は少しだけ緊張がほどけた。
ロウ村。
屋敷の外。
知らない人たち。
知らない匂い。
知らない声。
怖いだけではなかった。
その時だった。
「おい」
後ろから声がした。
少し大きい。
少し乱暴。
振り返ると、木の棒を持った男の子が立っていた。
赤茶色の髪。
そばかす。
強そうな顔を作っているが、鼻の頭に土がついている。
俺より少し年上だ。
五歳くらいだろうか。
男の子は俺をじろじろ見た。
「お前が貴族のぼっちゃん?」
空気が少し変わった。
セラの眉が動く。
バルドが後ろで面白そうにしている。
リタが小さく「あ」と言った。
男の子は木の棒を肩に担ぎ、俺の前に立った。
「俺、トマ」
名乗り方が雑だ。
「お前、走れんの?」
初対面でそれか。
俺はパンを持ったまま固まった。
セラが一歩前に出ようとする。
だが、俺はそれより先に口を開いた。
「……すこし」
トマは目を細めた。
「すこし?」
「あい」
「へえ」
嫌な笑い方をする。
セラが不機嫌になる気配がした。
トマは木の棒で地面を軽く叩いた。
「貴族だからって、走るの遅くていいわけじゃねえぞ」
こいつ。
かなり面倒くさい。
だが、不思議と嫌ではなかった。
セラとは違う。
リタとも違う。
屋敷の大人たちとも違う。
遠慮がない。
それも、セラとは別の方向に。
ロウ村に来て、俺は初めて思った。
世界は、俺に優しい人だけでできているわけではない。
でも、そういう相手も、少し面白い。
トマがにやりと笑う。
「勝負するか?」
何の勝負だ。
俺はパンを握ったまま、思わずバルドを見た。
バルドは腕を組んで笑っていた。
助ける気はなさそうだ。
セラは俺の隣で、すでに戦う顔をしている。
リタはパンを持ったまま、おろおろしている。
俺は小さく息を吐いた。
ロウ村。
初めての屋敷の外。
どうやら、ゆっくり見学だけでは済まないらしい。




