第18話 木剣は、まだ少し長い
木剣をもらった翌日。
俺は庭にいた。
目の前にはバルド。
その後ろには、なぜかセラ。
そして、少し離れた場所にはオスカー。
さらに遠くの窓辺にはエレナ。
もっと遠くの木陰にはグレン。
多い。
見学者が多い。
幼児の木剣稽古である。
そんなに見守る必要があるのか。
「坊ちゃま」
バルドが木剣を肩に担ぎ、にやりと笑った。
「今日はまず、立つところからですな」
「たつ」
「そうです。強く振る必要はありません。倒れない。手を離さない。息を止めない」
昨日も似たようなことを言われた。
つまり、剣以前の問題である。
まあ、実際その通りだ。
俺は木剣を両手で握った。
やはり重い。
昨日よりは少し慣れた気もする。
気がするだけかもしれない。
「足を開いてください」
バルドが俺の足元を指差す。
「もう少し」
足を動かす。
「開きすぎですな」
戻す。
「今度は狭い」
難しい。
ただ立つだけなのに。
バルドは俺の横に回り、しゃがんだ。
「坊ちゃま、転びそうになった時、どこを見ます?」
「した」
「そうですな。ですが、下ばかり見ていると、前が見えません」
バルドは自分の胸を軽く叩いた。
「怖い時ほど、顔を上げる。全部じゃなくていいです。ちょっとだけ」
「ちょっと」
「はい。ちょっとでいい」
それならできそうだ。
俺は木剣を握り直した。
手が小さい。
柄をしっかり握ろうとすると、指に力が入る。
力が入ると、肩まで上がる。
「肩」
バルドが言った。
俺は慌てて力を抜いた。
「息」
息を吸う。
浅い。
「もう一回」
息を吸う。
今度は少しまし。
「よし。今のはいいですな」
よし。
と言われると、少しだけ嬉しい。
単純である。
「では、木剣を上げてみましょう」
俺は木剣を持ち上げた。
重い。
腕がぷるぷるする。
手が震える。
指が痛い。
落としたくない。
でも、落としそうだ。
「無理に高く上げなくていいです」
バルドが言う。
「胸の前で十分」
俺は木剣を下げた。
少し楽になる。
しかし、胸の前で構えるだけでも腕が疲れる。
これは本当に剣なのか。
ただの筋トレ器具ではないのか。
「レオン、震えてる」
セラが言った。
見れば分かることを言うな。
「ふる、ない」
「震えてる」
「ない」
「ある」
セラは真剣な顔で言った。
「でも、離してない」
俺は口を閉じた。
確かに。
震えている。
でも、離してはいない。
バルドが小さく笑った。
「セラ様の言う通りですな」
俺は木剣を握る手を見た。
指が震えている。
手のひらに汗がにじんでいる。
それでも、柄は手の中にある。
「坊ちゃま、今日はそれを覚えてください」
「それ」
「震えても、持てる。怖くても、立てる」
バルドはいつもの調子で言った。
名言っぽくはない。
ただ、その場で当たり前のように言った。
それが逆に、胸に残った。
「では、少しだけ動きますぞ」
「う」
「一歩、右」
右。
俺は考えてから足を動かした。
「逆ですな」
左だった。
セラが笑った。
「レオン、逆」
「うるさい」
「あ、言えた」
しまった。
言えた。
セラが嬉しそうにする。
「もう一回言って」
「や」
「けち」
だから、なぜそうなる。
バルドが笑いをこらえながら手を叩いた。
「はいはい、稽古に戻りますぞ」
助かった。
俺は改めて足を動かす。
今度は右。
一歩。
木剣が揺れる。
体も揺れる。
倒れそうになる。
「踏ん張って」
バルドの声。
俺は足に力を入れた。
止まった。
「よし」
よし。
また少し嬉しい。
「次、左」
一歩。
今度は早く動こうとして、つま先が芝に引っかかった。
「あ」
体が前へ倒れる。
まずい。
手が出ない。
木剣を持っているからだ。
顔からいく。
そう思った瞬間、足元の影が少し濃くなった。
昨日と同じ。
靴の裏を冷たい何かが支えようとする。
だが、俺は息を飲んだ。
使うな。
今は違う。
黒水に頼る場面じゃない。
俺は木剣を握ったまま、無理やり足を出した。
膝が芝につく。
痛い。
転んだ。
でも、顔からはいかなかった。
「っ……」
膝がじんじんする。
手も痛い。
木剣は、まだ握っている。
セラが駆け寄ってきた。
「レオン!」
声が大きい。
焦っている。
俺は顔を上げた。
「だい、じょ」
「大丈夫じゃない!」
怒られた。
「血、出てる?」
セラが俺の膝を見る。
少し赤い。
血は出ていない。
出ていないが、痛い。
幼児の膝は弱い。
「坊ちゃま」
バルドも近づいてきた。
いつもの笑い声はない。
「手、見せてください」
俺は木剣を持った手を開いた。
手のひらが赤くなっている。
バルドはそれを見て、少しだけ息を吐いた。
「無理に踏ん張りましたな」
「う」
「でも、顔からはいかなかった」
そうだ。
顔からはいかなかった。
木剣も離さなかった。
黒水も、たぶん使わなかった。
足元の影はもう普通に戻っている。
「今のはどうしたらいいのですか、バルド」
セラが聞いた。
真面目な顔だった。
「転んだら、負け?」
「いいえ」
バルドは首を振った。
「転んでも、手をついて、頭を守れたら十分です」
「十分?」
「はい。立っているより大事な時もあります」
セラは少し考えた。
それから、俺の膝を見た。
「痛い?」
「いたい」
素直に言った。
痛いものは痛い。
セラは眉を寄せた。
「じゃあ、今日は終わり?」
俺はバルドを見た。
バルドは俺を見ていた。
グレンも、遠くからこちらを見ている。
怖い顔ではない。
何も言わない。
ただ見ている。
俺は木剣を握った。
手が痛い。
膝も痛い。
怖くなかったと言えば嘘になる。
でも、終わりにしたくない。
なんでだ。
昨日まで剣なんて持てなかったのに。
今日だって、転んだだけだ。
それでも。
俺は小さく首を振った。
「もう、いっかい」
声が出た。
セラが目を丸くする。
バルドも少しだけ驚いた顔をした。
それから、にやりと笑う。
「よし」
その声は短かった。
「では、もう一回だけです」
バルドは俺を立たせてくれた。
俺は木剣を握り直した。
手が痛い。
膝が痛い。
さっきより足が怖い。
でも、立つ。
肩の力を抜く。
息をする。
「一歩、右」
今度は間違えない。
右。
一歩。
揺れる。
だが、倒れない。
「止まって」
止まる。
木剣を握る手が震える。
でも、離さない。
「よし」
バルドが言った。
「今日はここまで」
俺はその場で大きく息を吐いた。
足の力が抜けそうになる。
セラが慌てて俺の腕をつかんだ。
「また転ぶ」
「う」
「レオン、転びすぎ」
「うるさい」
「あ、また言った」
しまった。
セラが嬉しそうに笑う。
俺は顔をそらした。
バルドは木剣を受け取り、俺の頭を大きな手で撫でた。
「よく踏ん張った」
短い言葉だった。
でも、胸の奥が熱くなった。
格好いい勝利ではない。
剣を振れたわけでもない。
ただ転んで、立って、一歩動いただけ。
それでも、誰かにそう言われると、少しだけ救われる。
稽古の後、エレナが膝を見てくれた。
「赤くなっているわね」
「いたい」
「痛いでしょうね」
母はそう言いながら、冷たい布を膝に当てた。
俺は少し顔をしかめる。
「今日はもう木剣は終わり」
「あい」
「手も見せて」
手のひらを出す。
エレナは俺の指を一本ずつ見た。
その表情が、少しだけ厳しくなる。
「握りすぎね」
「う」
「力を入れすぎると、早く動けなくなるわ」
母も似たようなことを言う。
剣も魔法も、力を入れればいいわけではないらしい。
「怖いと、力が入るの」
エレナは俺の手を温めながら言った。
「でも、怖い時こそ、少しだけ息をするのよ」
バルドと同じだ。
俺はうなずいた。
「あい」
エレナは俺の頭を撫でた。
「今日は頑張ったわね」
「う」
「でも、無理はしないこと」
「あい」
「返事が少し早いわ」
ばれた。
エレナは静かに笑った。
その笑い方は、セラとは違う。
あたたかくて、少しだけ逃げ道をふさいでくる。
母親というものは強い。
夜。
俺はベッドの中で手を開いたり閉じたりしていた。
まだ少し痛い。
膝も痛い。
木剣はベッドの横に立てかけてある。
昨日よりも、少しだけ違って見えた。
もらっただけの木剣ではない。
転んだ時にも離さなかった木剣。
手の中に残った重さ。
膝の痛み。
バルドの声。
セラの焦った顔。
遠くから見ていた父の目。
母の温かい手。
全部が、木剣の周りに少しずつ積もっていく。
俺は手を握った。
震えても持てる。
怖くても立てる。
そんなこと、前世の俺は考えもしなかった。
怖くなったら、離した。
痛くなる前に、距離を取った。
言われる前に、いなくなった。
でも今日は。
転んだ。
痛かった。
それでも、もう一回と言えた。
小さすぎる一歩だ。
誰にも自慢できない。
でも、俺にとっては、たぶん大きかった。
机の上で、セラの鈴が淡く光っている。
音はしない。
でも、そこにある。
俺は目を閉じた。
明日も、たぶん転ぶ。
明後日も転ぶ。
バルドは笑うだろう。
セラは怒るだろう。
父は怖い顔で見るだろう。
それでも、木剣を握る。
まだ少し長い。
まだ重い。
でも、俺のものだ。




