第17話 三つ目の誕生日
三歳になった。
正確には、この世界で三度目の誕生日を迎えた。
前世の俺は、誕生日というものがあまり得意ではなかった。
祝われるのも苦手だった。
誰かに覚えられているのも苦手だった。
何かを返さなければいけない気がして、勝手に面倒になっていた。
だから、できるだけ何もない日として過ごしていた。
通知が来ても返さない。
メッセージが来ても後回し。
そのうち返すと言いながら、結局返さない。
そうやって、いろんなものを遠ざけてきた。
なのに。
「坊ちゃま、お誕生日おめでとうございます!」
朝から、ニナが泣いていた。
早い。
まだ何も始まっていない。
「泣くには少し早いんじゃないかしら」
マーサが呆れたように言う。
「だって、坊ちゃまが三歳ですよ! あんなに小さかったのに!」
「今も小さいわよ」
「そうですけど!」
ニナは両手で顔を覆った。
俺は椅子に座ったまま、どう反応すればいいか分からなかった。
祝われている。
かなり祝われている。
食堂のテーブルには、いつもより少し豪華な朝食が並んでいた。
焼きたてのパン。
温かいスープ。
小さな果物の皿。
そして、俺の前には、子ども用の小さな甘い焼き菓子。
母が作ったものらしい。
エレナは俺の前にしゃがみ、目を合わせた。
「おめでとう、レオン」
「あい」
「三歳ね」
「あい」
母の声はいつも通り優しかった。
でも、その目が少し潤んでいる。
やめてほしい。
そういう顔をされると、どうしていいか分からない。
グレンはいつもの席に座っていた。
腕を組んでいる。
顔が怖い。
誕生日なのに、敵陣を見る顔で息子を見ている。
「父さん」
「ああ」
それだけだった。
いや、何か言え。
俺がじっと見ていると、グレンは少しだけ眉間にしわを寄せた。
「……大きくなった」
言葉を絞り出したような声だった。
食堂が一瞬静かになる。
オスカーがすぐに口を開いた。
「旦那様としては、非常に長い祝辞でございました」
「黙れ」
「記録しておきます」
「するな」
するなと言われて、オスカーはなぜか本当に手帳を閉じた。
珍しい。
今日は父の勝ちらしい。
俺は小さく笑いそうになった。
すると、エレナがそれに気づいて、目元をやわらげた。
「いい日になりそうね」
そうだろうか。
朝からだいぶ騒がしい。
だが、嫌ではなかった。
昼前になると、セラが来た。
白いリボンを揺らし、玄関に入るなり俺を見つける。
「レオン!」
「う」
「三歳?」
「あい」
「本当に?」
なぜ疑う。
「ほんと」
「ちょっと大きくなった?」
「なった」
「うーん」
セラは俺の前に立ち、じっと見る。
近い。
近いぞ。
「少しだけ」
「すこし」
「うん。少しだけ」
正直でよろしい。
よくない。
セラの後ろで、リュミエール家のカミラ様が苦笑していた。
「セラ、今日はお祝いに来たのよ」
「してる」
「今のは、していたかしら」
セラは少し考えた。
それから、小さな包みを差し出した。
「これ」
俺は両手で受け取る。
軽い。
布に包まれている。
「開けて」
「あい」
包みをほどく。
中に入っていたのは、小さな鈴だった。
金属の鈴ではない。
透明な石の中に、淡い光が一粒入っている。
不思議な鈴だった。
揺らしても、音はしない。
「ならない」
「鳴るよ」
「ならない」
「今は鳴らないだけ」
セラは得意そうに言った。
それはどういう理屈だ。
俺が首を傾げると、セラは鈴を指先で軽くつついた。
「レオンが迷子になったら、鳴るかも」
「まいご」
「うん。たぶん」
たぶんで渡すな。
でも、鈴の中の光はきれいだった。
太陽みたいに強くない。
火みたいに熱くもない。
夜の部屋に、誰かが消さずに残してくれた小さな灯り。
そんな光だった。
「ありがとう」
言えた。
少しだけ詰まったけど、ちゃんと言えた。
セラは目を丸くする。
「今、ちゃんと言った」
「う」
「もう一回」
「や」
「言って」
「や」
「けち」
けちではない。
貴重なのだ。
セラは少し不満そうだったが、すぐに笑った。
白いリボンが揺れる。
その顔を見ていると、胸の奥が少し温かくなった。
午後。
庭に出ると、バルドが待っていた。
その横に、グレンがいる。
嫌な予感がした。
二人とも、何かを持っている。
細長い布に包まれたもの。
俺は足を止めた。
「坊ちゃま」
バルドがにやりと笑う。
「お誕生日ですからな」
「う」
「旦那様からです」
グレンが一歩前に出た。
布をほどく。
そこにあったのは、一本の木剣だった。
本物の剣ではない。
刃もない。
子ども用に削られた短い木剣。
それでも、枝とはまったく違った。
表面は丁寧に磨かれている。
握るところだけ、少し濃い色をしている。
子どもの手でも握れるように細く作られているが、玩具には見えなかった。
俺はすぐに受け取れなかった。
グレンは木剣を差し出したまま、低い声で言った。
「本物ではない」
「う」
「だが、玩具でもない」
俺は両手を出した。
木剣が手の中に乗る。
重い。
思っていたより、ずっと重い。
枝とは違う。
ただの木なのに、手の中に何かが残る。
父の手で削られたものだと、すぐに分かった。
俺は木剣を握った。
指が少し震える。
怖いわけではない。
でも、これを受け取ることが、ただの遊びではない気がした。
「振れるか」
グレンが言った。
無理だ。
と思った。
でも、俺は小さくうなずいた。
「あい」
木剣を持ち上げる。
重い。
腕が上がりきらない。
手首が負けそうになる。
それでも、俺は両手で握って、前に出した。
剣を振った、というより、木剣に振られそうになるのを必死に止めた。
よろける。
足がずれる。
まずい。
倒れる。
その瞬間、バルドの大きな手が背中に添えられた。
「おっと」
バルドが笑う。
「今日はここまでですな」
「もう?」
セラが横から言った。
お前は何を期待していた。
バルドは笑いながら首を振る。
「初日ですからな。まずは持てたら十分です」
グレンは俺を見ていた。
怖い顔ではない。
いつもの無表情に近い。
でも、どこか少しだけ、困ったような顔。
「焦るな」
父は言った。
「今日は、握れればいい」
俺は木剣を見下ろした。
握るだけ。
それだけでいい。
その言葉に、少しだけ肩の力が抜けた。
「あい」
そう答えると、グレンはわずかにうなずいた。
それだけだった。
でも、不思議と嬉しかった。
夕方には、屋敷の皆からそれぞれ小さな贈り物をもらった。
エレナからは、小さな外套。
まだ少し大きい。
「すぐにちょうどよくなるわ」
母はそう言って、肩にかけてくれた。
オスカーからは、薄い革表紙の小さな帳面。
「レオン様の成長記録とは別に、これはレオン様ご自身の記録用でございます」
「きろく」
「書けるようになりましたら、お使いください」
俺は帳面を開いた。
真っ白な紙。
何も書かれていない。
前世で何も残さなかった俺に、今度は白紙の帳面が渡された。
少しだけ、胸の奥が変な感じになった。
マーサからは、甘い焼き菓子が山ほど。
「育ち盛りだからね!」
まだ三歳である。
ニナからは、小さな布袋。
縫い目が少し曲がっている。
「わ、私が縫いました!」
見れば分かる。
でも、俺はその布袋を握った。
「ありがと」
ニナはまた泣いた。
早い。
今日二回目だ。
夜。
食事が終わった後、俺は自分の部屋で木剣を見ていた。
ベッドの横に立てかけてある。
小さい。
子ども用。
でも、俺にはまだ重い。
手を伸ばし、柄に触れる。
指先に木の感触が残る。
父がくれたもの。
セラがくれた鈴。
母の外套。
オスカーの帳面。
ニナの布袋。
今日、俺はたくさんのものを受け取った。
前世の俺なら、重いと思ったかもしれない。
期待されているみたいで。
返さなければいけないみたいで。
面倒になって、怖くなって、たぶん少し距離を取った。
でも今は。
重い。
確かに重い。
だけど、嫌ではなかった。
扉が静かに開く。
エレナが顔を出した。
「起きていたのね」
「あい」
母は部屋に入り、ベッドの横に座った。
俺の視線が木剣に向いていることに気づく。
「嬉しい?」
俺は少し考えた。
それから、うなずいた。
「あい」
「怖い?」
少しだけ黙った。
でも、嘘はつかなかった。
「あい」
エレナは驚かなかった。
ただ、俺の頭をそっと撫でた。
「そう」
それだけ。
怖いと言っても、剣を取り上げたりしない。
嬉しいと言っても、無理に笑わせたりしない。
母はただ、俺の隣にいた。
「怖いものを、すぐに好きにならなくてもいいのよ」
エレナは言った。
「でも、触れたことは覚えておきなさい」
「ふれた」
「ええ。今日はそれで十分」
俺は木剣を見た。
父の手で削られた木剣。
セラの光の鈴が、机の上で小さく光っている。
音はまだしない。
でも、そこにある。
俺は小さく息を吐いた。
三歳になった。
まだ弱い。
すぐ転ぶ。
剣も振れない。
言葉も足りない。
それでも、今日、俺の手には木剣が残った。
重くて、少し怖くて。
でも、離したくないものだった。




