第16話 セラは、遠慮を知らない
セラ・リュミエールと出会ってから、季節がいくつか過ぎた。
最初の頃の俺たちは、まともに遊んでいたというより、セラが庭を歩き、俺がその後ろをよちよち追いかけるだけだった。
いや、追いかけていたというより、追いかけさせられていた。
「レオン、遅い」
「う」
「また転びそう」
「ない」
「ある」
セラはいつも遠慮がなかった。
白いリボンを揺らしながら、庭の石畳をすたすた歩く。
淡い金色の髪は、走ると少し跳ねる。
白い服の裾には、気づけば小さな草の種がついていた。
リュミエール家のお嬢様。
そう聞けば、もっと人形みたいに大人しい子を想像する。
だが、実物は違う。
庭を走る。
花壇を覗く。
虫を見つける。
俺の顔を見る。
そして、毎回のように言う。
「変な顔」
やめろ。
それはもう挨拶ではない。
悪口だ。
「へん、ない」
「変」
「ない」
「じゃあ、今の顔なに?」
知らん。
俺が口を閉じると、セラはなぜか満足そうにうなずいた。
「今日はよくしゃべるね」
どこがだ。
俺の発語レベルは、まだかなり低い。
中身は大人。
体は子ども。
このズレは、思っていた以上に面倒だった。
考えていることは多い。
言いたいことも、それなりにある。
なのに、口から出るのは短い音だけ。
前世で言葉を避けていた俺が、今度は言葉に届かない。
人生というものは、なかなか性格が悪い。
セラは、よく屋敷へ来るようになった。
最初はリュミエール家の奥様、カミラ様と一緒だった。
そのうち、護衛と侍女を連れて来るようになった。
グレンは、最初の何回かは玄関で硬い顔をしていた。
だが、セラが俺の手を引いて庭に出ていくのを見るたびに、少しずつ何も言わなくなった。
いや、何も言わないだけで、ものすごく見ている。
特に、俺が転びそうになると目が鋭くなる。
父よ。
俺は魔獣ではない。
転倒しかけの幼児である。
「旦那様」
ある日、オスカーが静かに言った。
「その顔では、レオン様が決闘場に送り出されるように見えます」
「見守っている」
「でしたら、もう少し見守る顔をお願いいたします」
「……努力する」
努力はしてくれた。
あまり変わらなかった。
オスカーは諦めたように眼鏡を直した。
セラと過ごす時間は、不思議だった。
彼女は俺を子ども扱いする。
まあ、実際に子どもなのだが。
だが、時々、俺の奥を見ているような顔をする。
前世のことを知っているわけではない。
黒水のことを理解しているわけでもない。
たぶん、セラ自身も分かっていない。
ただ、何かを感じる。
その程度なのだと思う。
最近は、俺もそれを深く考えすぎないことにした。
セラはセラだ。
白いリボンをすぐ斜めにする。
俺の顔を変と言う。
足が短いと言う。
でも転びそうになると、当たり前みたいに手を出してくる。
そういう子だ。
「レオン、こっち」
セラが庭の端で手を振った。
俺は小さく息を吐き、歩き出す。
一歩。
二歩。
三歩。
だいぶ歩けるようになった。
まだ走れない。
すぐ転ぶ。
段差は敵だ。
だが、以前よりはましだ。
「早く」
「むり」
「できる」
「むり」
「できる」
なぜお前が決める。
俺は少しだけむきになって足を出した。
その瞬間、石畳の端に靴が引っかかる。
あ。
体が前に傾いた。
まずい。
手が出ない。
顔からいく。
そう思った瞬間、足元の影がわずかに濃くなった。
靴の裏を、冷たい何かが押した。
ほんの少し。
それだけで、俺の体はぎりぎり持ち直した。
「……っ」
心臓が跳ねた。
手が震えている。
転ばなかった。
でも、今のは俺だけの力ではない。
足元を見る。
影は普通の影に戻っていた。
黒水は出ていない。
だが、胸の奥に、冷たい水滴が残っている気がした。
「レオン」
セラの声がした。
顔を上げる。
彼女は、俺の足元を見ていた。
いつものように何でも言う顔ではない。
少しだけ、困ったような顔。
「今の、なに?」
俺は答えられなかった。
分からない。
いや、本当は少し分かっている。
でも、言葉にできない。
したくない。
「……ない」
「ない?」
「ない」
俺がそう言うと、セラはじっと俺を見た。
琥珀色の目。
責めているわけではない。
怖がっているわけでもない。
ただ、見ている。
俺はその視線に耐えきれず、少しだけ目をそらした。
「レオン」
「う」
「転ばなくてよかったね」
セラは、それ以上聞かなかった。
ただ、俺の手をつかんだ。
温かい。
俺の指先は、少し冷えていた。
「手、冷たい」
「う」
「変」
またそれか。
でも、今の「変」は、さっきまでの「変」と少し違った。
セラは俺の手を握ったまま、庭の真ん中へ引っ張っていく。
「次、あれ」
彼女が指差したのは、落ちていた細い枝だった。
「何?」
「剣」
枝である。
どう見ても枝である。
だが、セラは真剣だった。
白いリボンを揺らし、枝を一本拾う。
「レオンも」
「や」
「や、じゃない」
「や」
「友達でしょ」
友達とは、枝を持たされる制度だったのか。
俺が渋っていると、セラはもう一本の枝を拾い、俺に差し出した。
短い。
軽い。
少し曲がっている。
俺はそれを握った。
枝である。
どう見ても枝である。
だが、手に持つと、少しだけ背筋が伸びた。
「いくよ」
「ま」
待て、と言おうとした。
だが、セラは待たなかった。
「えい!」
枝が振られる。
軽い音がした。
俺の枝に当たった。
かつん。
思ったより響いた。
「うわ」
「弱い」
「よわ、ない」
「弱い」
この子、本当に容赦がない。
俺は枝を両手で握り直した。
手が小さい。
力もない。
それでも、さっきより少しだけ強く握る。
「いく」
「来て」
セラが笑った。
白いリボンが揺れる。
俺は枝を持ち上げた。
腕が重い。
たかが枝なのに。
いや、俺の体がまだ小さいのだ。
それでも振った。
「えい」
弱い。
自分でも分かるくらい弱い。
セラは枝で簡単に受けた。
かつん。
「もう一回」
「う」
「もう一回」
「う」
かつん。
かつん。
かつん。
何度も枝が当たる。
庭の端でニナが両手を握って見ていた。
「かわいい……」
聞こえているぞ。
遠くでオスカーが手帳を開いている。
記録するな。
さらに少し離れた木陰に、バルドが立っていた。
いつの間に。
兵士長は腕を組み、にやにやしている。
嫌な予感がした。
「坊ちゃま」
バルドが近づいてきた。
「なかなか良いですな」
どこがだ。
俺の枝さばきは、今のところ風に負けそうである。
「剣を振るには、まだ早いです」
バルドはしゃがみ、俺と目線を合わせた。
大きな男がしゃがむと、それだけで壁みたいだ。
「でも、立つ練習にはなります」
「たつ?」
「そうです。振るより先に、転ばねえことですな」
バルドは俺の足元を指差した。
「足、止めない。肩、上げすぎない。怖かったら、まず息をする」
言っていることは分かる。
だが、幼児に要求する内容としては少し濃い。
セラが横から聞いた。
「私も?」
「セラ様もです」
「私、転ばない」
その瞬間、セラの靴が芝の端に引っかかった。
「きゃっ」
危ない。
俺は反射的に手を伸ばした。
届くわけがない。
だが、セラは自分で踏ん張った。
白いリボンが大きく揺れる。
セラは少しだけ頬を赤くした。
「……今のは、わざと」
「違いますな」
バルドが即答した。
セラがむっとする。
俺は笑いそうになった。
だが、笑う前にセラに睨まれた。
「レオン、笑った?」
「ない」
「笑った」
「ない」
「絶対笑った」
怒っている。
かなり怒っている。
俺は慌てて枝を構え直した。
セラも枝を構える。
その顔が、少し本気になっていた。
まずい。
幼児の枝対決とは思えない緊張感である。
「いくよ!」
「うわ」
セラが踏み込む。
速い。
いや、子どもとしては速い、くらいなのだろう。
だが俺には十分速い。
手が震える。
枝を握る指に力が入りすぎる。
肩が上がる。
足が止まる。
「坊ちゃま、息!」
バルドの声が飛ぶ。
息。
そうだ。
俺は息を吸った。
短く。
浅く。
でも、吸った。
セラの枝が来る。
俺は受けようとして、間に合わないと思った。
だから、一歩だけ下がった。
枝は俺の目の前を通り過ぎる。
風が頬に触れた。
怖い。
ただの枝なのに、少し怖かった。
でも、当たらなかった。
俺は自分の足を見た。
下がれた。
ほんの一歩。
それだけなのに、胸が少し熱くなった。
「今の!」
セラが目を丸くする。
「逃げた!」
その言い方はやめろ。
いや、逃げたのは事実だ。
でも、今回は悪い逃げ方ではなかった気がする。
バルドが大きく笑った。
「ガハハ! いいですな、坊ちゃま!」
俺は顔を上げる。
バルドは満足そうにうなずいた。
「今のは、よく見てました」
「みた?」
「はい。怖くて固まらなかった。足が動いた」
バルドは俺の小さな足を見た。
「今のでいいです」
今のでいい。
その言葉が、思ったより胸に残った。
勝ったわけではない。
格好よかったわけでもない。
むしろ、ちょっと情けない。
でも、足は動いた。
俺は自分の手を見た。
まだ震えている。
枝を握る指も、少し汗ばんでいる。
それでも、離してはいなかった。
「もう一回!」
セラが言った。
早い。
切り替えが早い。
俺は思わずバルドを見た。
助けを求める目である。
バルドはにやりと笑った。
「もう一回ですな」
裏切り者。
俺は小さく息を吐いた。
セラが枝を構える。
白いリボンが、春の風で少し斜めになっていた。
琥珀色の目が、まっすぐ俺を見る。
「レオン」
「う」
「ちゃんと見て」
その言い方は、いつものからかいとは少し違った。
俺は枝を握り直す。
怖い。
手は震えている。
足元の影も、少しだけ重い。
でも、今は黒水を使う場面ではない。
ただ、立つ。
見る。
息をする。
セラが踏み込んだ。
俺は、一歩だけ横へ動いた。
かつん。
枝と枝が当たる。
さっきより、少しだけいい音がした。
夕方。
セラが帰る頃には、俺の腕はすっかり重くなっていた。
枝を振っただけなのに。
子どもの体は本当に燃費が悪い。
セラは玄関前で、カミラ様の隣に立っていた。
白いリボンは、結局かなり斜めになっている。
服の裾には土。
靴にも土。
それでも、彼女は少し得意そうだった。
「また来るね」
「う」
「次はもっと強くなってて」
無茶を言う。
「むり」
「できる」
だから、なぜお前が決める。
セラは俺の顔を覗き込んだ。
「今日のレオン、ちょっと変だった」
またか。
だが、セラはすぐに続けた。
「でも、いい変」
いい変とは何だ。
俺が眉を寄せると、セラは満足そうに笑った。
「またね、レオン」
そう言って、馬車へ向かう。
俺はその背中を見送った。
淡い金色の髪。
白いリボン。
小さな背中。
春の光の中で、彼女は一度だけ振り返った。
俺は小さく手を上げた。
セラも手を振る。
馬車が動き出す。
車輪の音が遠ざかる。
俺は、しばらくその場に立っていた。
手はまだ少し震えていた。
腕も痛い。
足も疲れた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
「坊ちゃま」
バルドが後ろから声をかけた。
「今日はよく踏ん張りましたな」
俺は振り返る。
バルドはいつものように笑っていた。
でも、その目は少しだけ真面目だった。
「怖い時に足が動くのは、悪くないです」
「こわ?」
「怖かったでしょう?」
俺は答えなかった。
怖かった。
枝なのに。
遊びなのに。
セラ相手なのに。
手が震えた。
でも、足は動いた。
俺は小さくうなずいた。
「あい」
「それでいいです」
バルドは大きな手で、俺の頭を少し乱暴に撫でた。
「次は、転ばない練習ですな」
まだやるのか。
俺が嫌そうな顔をすると、バルドは楽しそうに笑った。
「その顔、旦那様に似てきましたぞ」
それは嫌だ。
いや、嫌ではないかもしれない。
少しだけ。
屋敷の中へ戻ると、エレナが待っていた。
「おかえりなさい、レオン」
俺は母の方へ歩いた。
一歩。
二歩。
三歩。
さっきより足が重い。
でも、転ばなかった。
エレナがしゃがみ、俺の手を取る。
「手、冷たいわね」
母はすぐに気づく。
俺は少しだけ目をそらした。
「だい、じょ」
「大丈夫でも、温めます」
母の声は優しい。
でも、逆らえない。
エレナは俺の小さな手を両手で包んだ。
温かい。
その温度が指先から少しずつ戻ってくる。
「今日はたくさん遊んだのね」
「あい」
「怖いこともあった?」
俺は迷った。
少しだけ。
それから、うなずいた。
「あい」
エレナは驚かなかった。
ただ、俺の手を包んだまま、静かに微笑んだ。
「そう」
それだけだった。
でも、それだけでよかった。
怖かった。
手が震えた。
足もすくみそうになった。
それでも、今日は一歩だけ動けた。
セラはまた来る。
たぶん、明日も明後日も、遠慮なく俺を引っ張る。
バルドは転ばない練習をさせるだろう。
グレンは怖い顔で見守るだろう。
オスカーは記録する。
ニナは叫ぶ。
マーサは笑う。
そして俺は、また何度も転びそうになる。
それでも。
今日の一歩は、たぶん悪くなかった。
俺はエレナの手の中で、冷えた指を少しだけ動かした。
かつん。
庭で鳴った枝の音が、まだ耳に残っていた。
ここまで読んでいただきありがとうございます。
少しでも続きが気になると思っていただけましたら、
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