第20話 貴族のぼっちゃん
「勝負するか?」
トマはそう言って、木の棒を肩に担いだ。
赤茶色の髪。
そばかす。
鼻の頭には土。
どう見ても村の子どもなのに、本人はどこかの戦士みたいな顔をしている。
俺は手の中のパンを見た。
食べかけである。
今、俺は勝負よりパンを食べたい。
「しない」
素直に答えた。
トマの顔が固まる。
「なんでだよ!」
声がでかい。
「パン」
「パン?」
「たべる」
俺がそう言うと、リタが小さく笑った。
セラも少し笑いそうになっている。
トマだけが納得していない。
「お前、貴族だろ!」
「う」
「貴族って、剣とか強いんじゃねえの?」
「しらない」
「知らないってなんだよ!」
本当に知らない。
少なくとも俺はまだ強くない。
木剣は持てるようになったが、振れば自分の体が負ける。
走れば転ぶ。
段差は敵だ。
貴族だからといって、いきなり強くなるわけではない。
トマは俺をじっと見た。
それから、俺の足元を見た。
「お前、足ちっちゃ」
腹が立った。
事実だが。
セラが一歩前に出た。
「トマ」
声が低い。
白いリボンが、風もないのに揺れた気がした。
「レオンに失礼」
「だって本当じゃん」
「本当でも言わない」
「お前だって言ってるだろ!」
正論である。
セラは一瞬黙った。
そして、すぐに言った。
「私はいいの」
よくない。
俺はパンを口に入れながら、二人を見ていた。
この二人、相性が悪い。
というより、似ているのかもしれない。
どちらも遠慮がない。
ただし、セラは真正面から人の中へ入ってくる。
トマは棒を振り回しながら突っ込んでくる。
方向性が違うだけで、どちらも面倒だ。
「坊ちゃま」
後ろからバルドが声をかけた。
俺は振り返る。
バルドは笑っている。
絶対に面白がっている。
「少しだけ遊んでみてはいかがです?」
「や」
「即答ですな」
「や」
無理なものは無理だ。
俺はまだロウ村に来たばかりなのだ。
初回から村のガキ大将と勝負する必要はない。
そう思っていると、トマが木の棒で地面を叩いた。
「じゃあ、走るだけ!」
「はしる」
「そう。あそこの井戸まで」
トマが指差す。
村の中央にある井戸。
そこまでの距離は短い。
大人なら数秒だろう。
だが、俺には長い。
セラが俺を見る。
「走れる?」
「……すこし」
「転ぶ?」
「たぶん」
「じゃあ、やめる?」
やめたい。
かなりやめたい。
でも、トマが俺を見ている。
馬鹿にしたような顔。
いや、子どもらしい顔だ。
相手を試している。
自分の場所に入ってきたよそ者を見ている。
前世の俺なら、こういう視線からすぐ逃げた。
面倒だった。
傷つく前に距離を取った。
関わらない理由を探した。
今も、怖い。
手の中のパンが少し潰れる。
知らない子ども。
知らない場所。
笑われるかもしれない。
転ぶかもしれない。
だが。
バルドの声が頭に残っていた。
怖い時に足が動くのは、悪くない。
俺はパンをリタに預けた。
「もってて」
「うん」
リタは両手で大事そうにパンを受け取った。
セラが目を丸くする。
「やるの?」
「すこし」
トマがにやっと笑う。
「お、やるじゃん」
腹が立つ。
だが、悪くない。
バルドが井戸までの道を見た。
「石が出ていますな。坊ちゃま、右側は避けてください」
「あい」
「転びそうなら止まっていいです」
「あい」
「無理に勝とうとしない」
「あい」
トマが不満そうな顔をする。
「なんだよ、勝負だぞ」
バルドは笑った。
「坊ちゃまの勝負は、まず転ばないことですからな」
「なんだそれ」
トマは首を傾げる。
俺も少し思う。
だが、今の俺にはそれで十分だ。
セラが俺の隣に立った。
「私も走る」
「なんで?」
トマが言う。
「私も走りたいから」
理由が強い。
セラは俺を見た。
「レオン、転びそうになったら言って」
「う」
「言わなくても分かるけど」
怖い。
なぜ分かる。
リタはパンを抱えて、井戸の近くで待つことになった。
護衛の一人が井戸の近くに立つ。
バルドは中間地点。
安全管理が本気だ。
子どものかけっこなのに。
「よーい」
トマが勝手に言う。
お前が言うのか。
「どん!」
トマが走り出した。
早い。
思ったより早い。
木の棒を持ったまま、土の道を蹴って進む。
セラも走った。
白いリボンが跳ねる。
俺は一拍遅れて足を出した。
まずい。
最初から遅い。
地面が庭と違う。
土が柔らかい。
小石がある。
靴の裏が少し沈む。
一歩。
二歩。
三歩。
息が上がる。
早い。
まだ全然走っていないのに。
手が震える。
足がもつれそうになる。
トマが振り返った。
「おっそ!」
うるさい。
腹が立った。
その瞬間、足が少し速くなった。
いや、速くなった気がしただけだ。
でも、前へ出た。
「レオン!」
セラの声。
前を見る。
石がある。
まずい。
足が引っかかる。
体が前に倒れる。
手を出せ。
でも、足がついてこない。
やばい。
顔からいく。
「坊ちゃま!」
バルドの声が飛んだ。
その瞬間、足元の影が少しだけ濃くなった。
冷たいものが靴の裏を押す。
だが、俺は歯を食いしばった。
違う。
今は違う。
自分で。
俺は右足を無理やり前に出した。
膝が曲がる。
腕を広げる。
ぐらつく。
「うわっ」
声が出た。
でも、倒れなかった。
止まった。
トマもセラも振り返っている。
リタはパンを抱えたまま口を開けていた。
俺は肩で息をした。
心臓がうるさい。
手が震えている。
怖かった。
今のは怖かった。
でも、立っている。
「……転ばなかった」
セラが言った。
俺はうなずく余裕もない。
トマが戻ってきた。
「今の、変な止まり方」
「うるさい」
「あ、しゃべった」
こいつもセラと同じ反応をするのか。
トマは俺の足元を見ていた。
「でも、転ばなかったな」
「う」
「じゃあ、負けじゃねえな」
勝ちでもない。
俺は井戸まで行けていない。
トマは木の棒で肩を叩きながら言った。
「今日は引き分けにしてやる」
なぜ上からなのか。
セラが眉を吊り上げる。
「レオンは転ばなかったから勝ち」
「井戸まで行ってねえだろ」
「転ばなかった」
「勝負は走るって言った!」
「でも転ばなかった!」
「なんだよそれ!」
二人が言い合いを始めた。
俺はその場で息を整えた。
バルドが近づいてくる。
「坊ちゃま、大丈夫ですか」
「う」
「今のは、よく止まりました」
バルドは短く言った。
「膝は?」
「いたく、ない」
「本当ですか」
「すこし」
「正直でよろしい」
バルドは笑った。
それから、俺の足元をちらりと見る。
影のことに気づいたのかもしれない。
だが、何も言わなかった。
今はそれで助かった。
リタが走ってきた。
俺のパンを両手で持っている。
「レオンくん、パン」
くん。
今、くんと言った。
俺が受け取ると、リタは心配そうに顔を覗き込んだ。
「痛くない?」
「すこし」
「じゃあ、半分あげる」
すでに俺のパンである。
だが、リタは自分の分のパンをさらに割ってくれた。
優しい。
少し戸惑うくらい優しい。
「あ、りがと」
リタは嬉しそうに笑った。
その横で、セラがじっと見ていた。
「……レオン」
「う」
「パン、もらいすぎ」
なぜ少し不機嫌なのか。
「セラもいる?」
リタが聞く。
セラは一瞬だけ黙った。
「……いる」
いるのか。
リタはパンを小さく割って、セラにも渡した。
セラは受け取った。
そして、小さくかじる。
「おいしい」
「うん!」
リタが笑う。
セラも少しだけ表情をゆるめた。
トマがそれを見て、つまらなさそうに木の棒を振った。
「お前ら、パンばっか食ってんな」
「トマも食べる?」
リタが聞く。
「いらねえ」
ぐう、と音がした。
トマの腹だった。
全員が黙った。
トマの顔が赤くなる。
「い、今のは違う!」
「違わない」
セラが即答した。
リタは笑いながら、トマにもパンを渡した。
トマはしばらく意地を張っていたが、結局受け取った。
「……ちょっとだけだからな」
かなり大きくかじった。
俺はそれを見て、少し笑ってしまった。
トマがこっちを見る。
「笑ったな!」
「ない」
「笑った!」
「ない」
「お前、嘘下手だな」
よく言われる。
なぜだ。
その後、俺たちは井戸の近くで少しだけ遊んだ。
遊んだと言っても、俺はほとんど見ているだけだ。
トマは木の棒で地面に線を引き、村の道を説明してくれた。
「ここがパン屋。ここが鍛冶屋。ここが俺んち」
「かじや」
「そう。父ちゃんが鉄叩いてる」
トマは少し得意そうだった。
「で、あっちは行っちゃだめ」
木の棒が村の端を指す。
古い物置小屋が見えた。
使われていなさそうな、小さな建物。
壁の板が少し黒ずんでいる。
俺はなぜか、そこから目が離せなかった。
「なんで?」
セラが聞く。
「古いから」
トマは雑に答えた。
「あと、暗い」
「それだけ?」
「それだけ」
リタが小さく首を振った。
「あそこ、声する時あるよ」
空気が止まった。
俺はリタを見る。
リタはパンの包みを握ったまま、少しだけ目を伏せた。
「お母さんが呼ぶ声」
胸の奥で、ぽちゃん、と何かが落ちた気がした。
黒水ではない。
まだ違う。
でも、体の奥が冷えた。
セラが俺を見た。
「レオン?」
俺は物置小屋を見ていた。
古い扉。
暗い隙間。
昼間なのに、そこだけ少し影が濃い。
トマが慌てたように言う。
「ば、ばか。リタ、それ言うなよ」
「でも、ほんとだもん」
リタは小さな声で言った。
「たまに、呼ぶの」
手が冷たくなる。
俺はパンを握りしめた。
柔らかいパンが、少し潰れる。
バルドが俺の肩に手を置いた。
「坊ちゃま」
低い声。
「今日は近づきません」
「あい」
俺はうなずいた。
近づかない。
今日は、ただ見るだけ。
そう決めた。
でも、物置小屋の影は、いつまでも視界の端に残っていた。
帰り道。
トマは村の入り口までついてきた。
「次はちゃんと井戸まで走れよ」
「むり」
「練習しろ」
「う」
「あと、木剣持ってこい」
なぜだ。
「勝負するから」
「や」
「なんでだよ!」
トマの声は相変わらず大きい。
でも、最初ほど怖くはなかった。
リタはパン屋の前で手を振った。
「また来てね」
「あい」
セラも手を振る。
トマは少しだけ照れくさそうにそっぽを向いた。
「まあ、来てもいいけど」
素直じゃない。
俺は小さく手を上げた。
ロウ村から屋敷へ戻る道。
足は疲れていた。
膝も少し痛い。
手にはパンの匂いが残っている。
でも、胸の中には、知らないものが増えていた。
トマ。
リタ。
村の道。
井戸。
パンの味。
そして、古い物置小屋。
世界は少し広くなった。
広くなった分だけ、怖いものも増えた。
でも。
もう一度行きたいと思った。
屋敷の門が見えてくる。
グレンが門の前に立っていた。
ずっと待っていたのかもしれない。
俺を見ると、父の肩がわずかに下がった。
「転んだか」
第一声がそれか。
「ころんで、ない」
「そうか」
父はうなずいた。
それから、俺の膝を見た。
「少し汚れている」
「ころんで、ない」
「そうか」
信じていない顔だ。
エレナが後ろから出てくる。
「おかえりなさい」
俺は少しだけ息を吸った。
「ただ、いま」
言えた。
今度は、前より自然に。
エレナが目を細める。
グレンは黙ったまま、少しだけ目を伏せた。
俺は門の中へ入る。
屋敷はいつもと同じだった。
でも、俺の中には、ロウ村の匂いが残っている。
焼きたてのパン。
土の道。
子どもの声。
そして、昼間なのに暗かった物置小屋の影。
その影が、なぜか消えなかった。




