第14話 母の本棚は危険である
一歳を少し過ぎた頃。
俺は、屋敷の中で行ける場所が増えた。
もちろん、自力で好き勝手に歩き回れるわけではない。
俺の足はまだ短い。
歩幅も狭い。
気を抜くと、すぐ転ぶ。
だが、つかまり立ちとよちよち歩きを覚えた赤ん坊というものは、本人の意思以上に周囲を緊張させるらしい。
「坊ちゃま、そちらは花瓶でございます」
「レオン様、そこは段差です!」
「坊ちゃま、そこは昨日ニナが磨いたばかりの床です。滑ります!」
「私のせいみたいに言わないでください、マーサさん!」
屋敷の廊下は、今日もにぎやかだった。
俺は小さな両手を壁につきながら、慎重に一歩を出す。
右足。
左足。
右足。
よし。
いける。
今の俺なら、廊下の端まで行ける気がする。
そう思った瞬間、床板のわずかな継ぎ目につまずいた。
「あっ」
ニナの声が跳ねる。
俺の体が前へ傾いた。
まずい。
顔面からいく。
そう思った瞬間、足元の影が、ほんの少しだけ濃くなった。
黒い水が出たわけではない。
けれど、影の端がわずかに伸びて、俺の靴の裏を支えた。
倒れかけた体が、ぎりぎりで止まる。
「……あ」
俺は自分の足元を見た。
影は、もう普通の影に戻っている。
気のせい、ではない。
たぶん。
「坊ちゃま、すごいです!」
ニナが両手を合わせて声を上げた。
「今の、踏ん張りましたよ! 完全に踏ん張りました!」
いや、俺だけの踏ん張りではない気がする。
だが説明できるはずもないので、俺はとりあえず胸を張った。
「あい」
「かわいい!」
ニナが一瞬で崩れた。
赤ん坊の返事というものは、便利である。
だいたいの疑問をごまかせる。
しかし、その様子を少し離れた場所から見ていたオスカーは、ごまかされていなかった。
白髪交じりの銀髪。
細い眼鏡。
まっすぐ伸びた背筋。
老執事は、俺の足元を一度見てから、静かに手帳を閉じた。
見たな。
今、絶対に見た。
「オスカー」
廊下の奥から、エレナの声がした。
今日のエレナは、淡い青の服を着ている。
金色の髪をゆるくまとめ、片手に数冊の本を抱えていた。
「はい、奥様」
「書斎の鍵は、あなたが持っているわね」
「もちろんでございます」
「少し調べたいことがあるの」
オスカーは、ほんのわずかに目を細めた。
「七つの塔に関するものでしょうか」
七つの塔。
その言葉に、俺は壁につけていた手を止めた。
聞き覚えがある。
母の本棚。
古い紋章。
魔法都市、ミラ・セプテム。
第十話あたりで見た、あれだ。
いや、第十話ってなんだ。
俺は誰に説明しているんだ。
とにかく、俺はその言葉を聞いた瞬間、足元が少し冷えるのを感じた。
黒水は出ていない。
でも、影の底で何かが小さく揺れた。
「レオン?」
エレナがこちらを見る。
その目が、すぐに俺の足元へ落ちた。
母は気づく。
俺の様子が少し変わったことに。
そしてそれを大げさに騒がない。
ただ、歩いてきて、俺の前に膝をついた。
「歩きすぎたかしら」
違う。
そう言いたいが、俺の口から出るのはまだ短い音だけだ。
「だい」
「大丈夫?」
「あい」
エレナは、俺の返事に少しだけ目元をゆるめた。
それから、俺の手を取る。
その手は温かかった。
足元の冷たさが、少しだけ薄くなる。
「少しだけ、一緒に書斎へ行きましょうか」
え。
いいのか。
俺は思わず顔を上げた。
エレナの書斎。
前から気になっていた場所だ。
あそこには、魔法の本がある。
古い本がある。
そしてたぶん、俺の黒水に関係する何かもある。
赤ん坊が触れていい場所ではない。
だが、俺の中身は赤ん坊ではない。
少なくとも、自称としては。
「奥様」
オスカーが静かに言った。
「レオン様をお連れしてよろしいので?」
「ええ」
エレナは俺の手を握ったまま答えた。
「隠しても、この子は見つけるわ」
なんだその信頼。
いや、ありがたいけど。
「でしたら、手の届く範囲で見せる方が安全でございますな」
「そういうこと」
ニナが不安そうに俺とエレナを交互に見る。
「わ、私はついて行かなくて大丈夫ですか?」
「ニナ」
マーサが肩に手を置いた。
「あんたが書斎に入ると、たぶん本棚のどれかを倒すよ」
「倒しません!」
「昨日、洗濯籠に自分でつまずいたじゃないか」
「あれは床が急に近づいてきたんです!」
床に罪を着せるな。
俺は内心でそう突っ込みながら、エレナに手を引かれて歩き出した。
書斎は、屋敷の奥にある。
廊下の途中から、魔法灯の色が少し変わる。
普段の屋敷の灯りは、白金色でやわらかい。
だが書斎の近くの灯りは、少し落ち着いている。
明るいのに、静かだ。
音まで吸い込まれそうな空気がある。
オスカーが鍵を開けた。
古い金具が、小さく鳴る。
扉が開くと、紙と木と少し乾いたインクの匂いがした。
俺は思わず息を吸った。
本棚が壁一面に並んでいる。
背表紙には、読めない文字がずらりと並んでいた。
魔法文字。
王国文字。
古代文字。
たぶん、そういうものだ。
読めないくせに、なんとなくそう思う。
エレナは俺を抱き上げ、小さな椅子に座らせた。
「ここで待っていてね」
「あい」
待つ。
大丈夫。
俺はもう一歳を過ぎた紳士である。
本棚に突撃したりはしない。
そう決意した三秒後、俺は一番下の棚に置かれた本が気になっていた。
いや、仕方ないだろう。
その本だけ、背表紙の色が違うのだ。
ほかの本は茶色や黒、深い緑が多い。
でもその本は、くすんだ白色だった。
そして表紙の端に、七つの塔のような紋章が刻まれている。
俺は椅子の上で体を伸ばした。
届かない。
もう少し。
指先が空を切る。
くそ。
この体、本当に不便だ。
「レオン様」
背後からオスカーの声。
早い。
「本日は、鑑賞のみでお願いいたします」
「うー」
「抗議は受け付けておりません」
この執事、赤ん坊相手でも容赦がない。
エレナは机の上に本を数冊置き、そのうち一冊を開いた。
分厚い本だった。
ページは黄ばんでいて、ところどころに手書きの注釈がある。
「……やっぱり、似ているわ」
エレナの声は小さかった。
俺は首を傾げる。
何が似ている?
見たい。
猛烈に見たい。
俺は椅子から降りようとした。
「レオン様」
オスカーの声が再び飛んできた。
この人、背中にも目がついているのではないか。
「オスカー」
エレナが呼んだ。
「少しだけ」
「承知いたしました」
オスカーは俺を抱き上げ、エレナの机の近くへ運んだ。
俺は本のページを見た。
そこには、黒い水のようなものが描かれていた。
泉にも見える。
影にも見える。
地面の下からにじみ出ているようにも見える。
その周囲には、七つの塔。
そして、塔の先から伸びる光の線。
線は黒い水の上で交わり、小さな灯りの輪を作っていた。
俺の胸の奥で、ぽちゃん、と水音がした。
ページの黒い絵が、揺れた気がした。
いや。
気がしただけではない。
足元の影が、わずかに濃くなる。
「……レオン」
エレナが俺の名前を呼んだ。
その声は優しい。
でも、いつもより少しだけ固い。
俺はページから目を離せなかった。
黒い水の絵の奥に、何かがある。
声ではない。
映像でもない。
ただ、知らない誰かの息づかいみたいなものが、胸の内側に触れた。
痛い。
ほんの少しだけ。
でも確かに、痛かった。
俺は反射的に手を引っ込めた。
ページには触っていない。
それでも、指先が冷たかった。
「奥様」
オスカーが低く言う。
「今の反応は」
「ええ」
エレナは本を閉じた。
ぱたん、という音が、やけに大きく聞こえた。
「通常の闇属性ではないわ」
闇属性。
やっぱり、この世界にはそういう分類があるらしい。
「水属性でもございませんな」
「どちらにも似ているけれど、どちらでもない」
エレナは閉じた本の表紙に、そっと手を置いた。
「ミラ・セプテムでも、記録上にしか残っていない現象よ」
記録上。
現象。
その言い方が、妙に怖かった。
俺は自分の手を見た。
小さい手だ。
赤ん坊の手。
何かを握るにも、まだ力が足りない。
そんな手の影に、黒いものが潜んでいる。
「……あい?」
何が、と聞きたかった。
でも俺の口から出たのは、相変わらず頼りない音だけだった。
エレナは俺の手を包むように握った。
「まだ、全部を知るには早いわ」
その言葉に、俺は少しだけむっとした。
早い。
確かに体は早い。
まだ一歳だ。
でも中身は違う。
知りたい。
自分の中にあるものくらい、知っておきたい。
そう思った瞬間、足元の影が、ほんの少し波打った。
俺の感情に反応したのだ。
エレナはそれを見て、目を伏せた。
「でも、知らないままにもしておけない」
その声は、母の声だった。
魔法使いでも、貴族の奥様でもない。
俺を抱いてくれる人の声。
「レオン」
エレナは俺の額に、自分の額をそっと近づけた。
「その水に、全部を預けないで」
水。
やっぱり母は、あれを水と呼ぶ。
「怖いものを見た時は、手を出して。声が出なければ、服をつかんで。泣いてもいい」
逃げてもいい。
帰ってこい。
そういう言葉ではなかった。
でも、なぜか胸に残った。
手を出す。
服をつかむ。
泣く。
どれも、前の俺が下手だったことだ。
「奥様」
オスカーが静かに言った。
「旦那様へは」
「話します」
「承知いたしました」
オスカーは一礼した。
その顔はいつも通り冷静だったが、手帳を持つ指が、ほんの少しだけ強く曲がっていた。
この人も、分かっている。
俺の中にあるものが、ただ珍しいだけではないことを。
その日の書斎見学は、そこで終わった。
エレナは本を棚に戻し、鍵をかけた。
俺はもう一度、七つの塔の本を見た。
表紙は静かだ。
黒い水の絵も見えない。
だが、俺の足元では、影が少しだけ重くなっていた。
廊下に戻ると、ニナが待っていた。
「坊ちゃま! ご無事ですか!」
大げさだ。
書斎から戻っただけだぞ。
俺が両手を広げると、ニナは顔を輝かせた。
「あ、抱っこですね! 抱っこ希望ですね!」
違う。
バランスを取っただけだ。
だが、抱き上げられた。
ニナの腕は少し頼りないが、温かい。
「何か怖い本でもありました?」
その言葉に、俺は一瞬だけニナを見た。
怖い本。
あった。
でも、怖いだけではなかった。
あの黒い水の絵を見た時、確かに胸が冷えた。
同時に、奥で何かが呼吸した。
誰かのものだったもの。
誰かが手放せなかったもの。
そういうものが、水の底に沈んでいる気がした。
俺はまだ、それに名前をつけられない。
でも、ただの力ではない。
たぶん、触れば痛い。
使えば、もっと痛い。
それでも。
俺は自分の小さな手を見た。
指はまだ短い。
握れるものも少ない。
でも、この手が何かをつかめるようになるなら。
あの水の底にあるものを、ただ怖がるだけで終わらせたくはなかった。
「坊ちゃま?」
ニナが首を傾げる。
俺は彼女のエプロンを、ぎゅっとつかんだ。
「おお、力強いですねえ!」
ニナは笑った。
廊下の魔法灯が、静かに揺れる。
その光が、俺の手元に落ちた。
足元の影は、もう動いていない。
でも、俺は知ってしまった。
あの水は、俺だけのものではない。
何かが沈んでいる。
誰かの声か。
誰かの痛みか。
誰かが最後まで捨てられなかったものか。
まだ分からない。
だが、分からないものを見てしまった時、人は目をそらすか、手を伸ばすかを選ぶ。
前の俺なら、たぶん目をそらした。
今の俺は。
ニナのエプロンをつかむ指に、少しだけ力を込めた。
まだ、答えは出せない。
でも、見なかったことにはできなかった。




