第13話 父、息子に逃げられる
歩けるようになった。
これは素晴らしいことだ。
移動の自由。
視界の拡大。
自分の意思で目的地へ向かえる感覚。
赤ん坊生活において、歩行とは革命である。
だが、自由には責任が伴う。
そして、俺の場合、もう一つ余計なものも伴った。
父である。
「レオン」
朝食後。
グレンが俺の前に立った。
短い黒髪。
灰色の目。
大柄な体。
相変わらず、子どもに話しかける圧ではない。
「歩行訓練を行う」
やはり訓練になった。
俺はエレナを見た。
母は少し困った顔で、俺とグレンを交互に見ている。
「あなた、今日はもう少し遊びに近い形で」
「遊びも訓練になる」
「そうだけれど」
「危険のない範囲で行う」
グレンは真面目だった。
真面目に面倒くさい。
俺はその場で、ぽてぽてと歩き出した。
目的地はエレナの膝。
安全地帯である。
しかし、父は俺の進路を読んだ。
大きな体が、さりげなく前に出る。
通せんぼ。
俺は止まった。
グレンを見る。
グレンも俺を見る。
「別方向も試せ」
命令ではない。
たぶんアドバイスだ。
ただし顔が怖い。
俺は方向転換した。
右へ。
グレンも右へ。
左へ。
グレンも左へ。
これは遊びなのか。
それとも狩りなのか。
俺は一瞬だけ考えた。
そして、逃げた。
ぽてぽてぽて。
全力である。
幼児の全力なので、速さはたかが知れている。
だが、グレンは本気で追えない。
俺が転ぶかもしれないからだ。
つまり、こちらには速度ではなく、相手の優しさを利用する戦術がある。
俺は椅子の横を抜け、テーブルの下へ潜り込んだ。
「レオン」
グレンが膝をつく。
でかい。
父はテーブルの下に入れない。
勝った。
俺はテーブルの脚につかまりながら、父を見た。
グレンの目がわずかに細くなる。
「考えたな」
褒められた。
いや、たぶん褒められている。
そこへ、廊下から大きな笑い声が響いた。
「ガハハ! 旦那様、坊ちゃまに遊ばれてますな!」
兵士長バルド・グレイだった。
灰色交じりの短髪。
無精ひげ。
片眉に古い傷。
大柄だが、グレンとは少し違う。
グレンが岩なら、バルドは大きな焚き火みたいな人だ。
暑苦しい。
でも、不思議と近寄りやすい。
腰には剣を差し、肩には訓練用の木剣を担いでいる。
この人が、アルベルト家の兵士たちをまとめているらしい。
魔獣の痕跡を追い払い、若手兵士を怒鳴り、たまに厨房でつまみ食いしてマーサに怒られる人。
すでに情報量が多い。
「遊ばれてはいない」
グレンが低く返す。
「追跡訓練だ」
「一歳児相手にですかい?」
「歩行能力の確認だ」
「ガハハ! 言い方を変えただけですな!」
バルドは腹を抱えて笑った。
グレンは少しだけ不機嫌そうだ。
珍しい。
父もこの人にはペースを乱されるらしい。
エレナが椅子に座ったまま、俺を見ている。
目元がやわらかい。
完全に見守り体勢だ。
助けてはくれないらしい。
マーサが部屋の入口から顔を出した。
「バルドさん、廊下でそんな大声出さないでくださいよ」
「おう、すまんすまん」
「それと、厨房の干し肉が一つ減ってましたけど」
「それは魔獣だな」
「屋敷の厨房に出る魔獣ですか」
「腹を空かせたおっさん型の魔獣だ」
「あとで説教です」
「ガハハ! 手加減してくれ!」
この屋敷、やっぱりうるさい。
俺はテーブルの下で少し笑いそうになった。
その瞬間、バルドが俺を見た。
「お、坊ちゃま。今、笑いましたな」
見られた。
「いい目をしてますぜ。旦那様より愛想がありますな!」
「バルド」
グレンの声が低くなる。
「事実ですぜ」
強い。
この人、父に正面から言えるのか。
俺はテーブルの下から出ようとした。
その時、足が敷物の端に引っかかった。
まずい。
体が前に倒れる。
床が近づく。
しかし、転ぶ直前、足元の影がほんの少しだけ濃くなった。
黒い水ではない。
影が靴底に薄く絡んで、俺の体を半歩だけ支えた。
俺はなんとか踏みとどまる。
グレンとバルドの目が、同時に動いた。
見られた。
バルドの笑いが止まる。
一瞬だけ、部屋の空気が変わった。
だが、グレンはすぐに俺の前に膝をつき、低い声で聞いた。
「痛めたか」
そこだった。
力のことではなく、まず怪我の確認。
俺は首を横に振った。
うまく振れたかは分からないが、たぶん伝わった。
「そうか」
グレンは俺の足を確認し、問題ないと分かると、ようやく小さく息を吐いた。
バルドも、肩の力を抜く。
「坊ちゃま、足腰は大事ですぜ」
彼はしゃがみこみ、俺と目線を合わせた。
「剣を振るのは後でいい。まずは転ばねえことだ」
その言葉は、意外とまともだった。
「前に出る時も、止まる時も、足がいる」
俺はバルドを見た。
この人は、ただ豪快に笑うだけの人ではないらしい。
「足が残ってりゃ、次がありますからな」
胸の奥が、少しだけ揺れた。
黒い水ではない。
もっと普通の、何かだ。
グレンが静かにバルドを見る。
その目は怒っていなかった。
むしろ、少しだけ懐かしそうだった。
この二人の間にも、何か過去があるのかもしれない。
「ただし」
バルドがにやりと笑った。
「旦那様から逃げ切るには、まだ足が足りませんな」
そう言って、俺をひょいと抱き上げた。
高い。
視界が一気に上がる。
俺は驚いて、バルドの服を握った。
「ガハハ! いい握力だ!」
グレンが一歩近づく。
「返せ」
「おっと、旦那様が本気ですぜ、坊ちゃま」
バルドは俺を抱いたまま、わざと一歩下がった。
グレンが無言で追う。
マーサがため息をつく。
「男どもは、すぐ子どもを使って遊ぶんだから」
エレナが俺を見て、肩の力が抜けるような顔をした。
結局、その日の歩行訓練は、父と兵士長の謎の追いかけっこで終わった。
俺は疲れて、グレンの腕の中で寝落ちした。
眠りに落ちる直前、父の声が聞こえた。
「勝負は、明日だ」
いや、父よ。
勝負だったのか。
俺は反論する体力もなく、そのまま眠った。
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