(9)一馬の恋文
大溝陣屋の総門を出て左手の石垣町には、大溝藩の重職の屋敷が軒を連ねている。高い黒板塀が路面のはるか先まで続いていて、屋敷の長屋門には棒を持った門番が立ち、通行人を凝視して容易に近づかせないように警戒している。
一馬は、懐に文を忍ばせて、勘定奉行竹内隼人の屋敷近くの柳の木陰に身を潜めていた。と言っても、大柄の一馬のことゆえ、潜めているつもりでも、傍目には明らかにそこに人がいることが分かる体であるが、藩内でも剣術の腕前で知られた一馬がそこにいても特に違和感は感じられないらしく、門番は一馬を一瞥したものの、怪しむ様子はなかった。
一馬は迷いに迷った挙句、ようやくかねてからの計画を実行に移すことに決めた。懐の文は前夜、一馬が精魂込めて書いたものである。が、文字も文の内容も、お世辞にも上手とは言えない出来栄えであった。
一馬は、竹内隼人の娘、雪に恋文を渡すためにここへ来ていた。雪はこの日、舞踊の稽古で昼九つどき(午後一時頃)に外出することを一馬は知っていた。
一馬が雪を見染めたのは五年前の大溝日吉神社の例大祭であった。出店を冷やかしながらそぞろ歩きしていると、かんざし屋の前で付き添いの侍女と楽しそうにかんざしをいくつも試し挿ししている雪を見て、一目惚れしてしまった。
(あのように美しい女人は見たことがない)
それからしばらくは剣術の稽古にも身が入らず、熱に浮かされたようになっていたが、やがてその女人が勘定奉行竹内隼人の娘であることを知り、一馬は大きく落胆した。
(身分が違い過ぎる)
竹内家は百五十石の知行取りであり、当主は歴代、大溝藩の高級官僚に任じられている家柄である。一方、一馬の坂部家は知行はなく、現米給八石取りの家柄であり、歴代、中小姓や定番士を勤めている。
いくら雪に懸想しても、到底実る恋ではない。一馬はきっぱりとあきらめたつもりであった。だが、その想いは心の底辺でこれまでずっとくすぶっていた。
恋の炎が再び燃え上がったのは、先日、重蔵と秋蔵から聞き知った「知行合一」という陽明学の命題である。
一馬はこの言葉を、「想いを抱いているのならば、行動に移すべきである」というように解釈し、それは自分の想いを雪へ告げることに他ならないと結論づけたのである。
(やはり、緊張する)
一馬は、自分が行おうとしていることが大胆な冒険であり、場合によっては無礼千万と断罪される恐れすらあることも知っていた。だが、一馬なりに知行合一を知ってしまった今、危険を回避するために行動を抑えることは卑怯であり、男子の振る舞いではない、と自分を叱咤していた。
竹内家の長屋門から、雪が出てきた。艶やかな島田髷に柔らかな口元、笑うと健康な白い歯並びが見え、細身の身体に振袖が映える。侍女のたかを従えていた。
一馬の心臓の鼓動はいっそう速くなった。この期に及んでも完全には迷いを払拭できない。せめて侍女がいなければ、と思ったが、めったに外出しない雪に近づくのは今しかない、とようやく覚悟を決めて、二十間ほど先に進んでいた雪を追いかけた。
「しばらく」
一馬が後ろから声をかけると、雪と侍女が振り返った。
「拙者、定番士の坂部一馬と申します。雪様に、これを」
一馬はそう言って、懐から恋文を取り出し、雪に差し出した。一馬の手は震えている。
雪は一瞬、驚いた表情をしたが、すぐに何事かを察し、表情をゆるめて文を受け取った。
「これは一体何事ですか? 坂部殿とやら、無礼ではありませんか?」
侍女のたかが一馬をたしなめた。
「まあ、そう言わずともよい。坂部殿、ほかに何か御用はございますか?」
雪がそう言うと、一馬は、
「いえ、ありません」
と言って、その場から足早に立ち去った。
雪と侍女は、遠ざかる一馬をしばらく見ていたが、やがてたかも察して、
「お嬢様、これはもしや、恋文では?」
と言った。
雪はふふ、と笑った。
雪は一馬のことを知っていた。剣術の試合で一馬の強豪ぶりを見たことがあるのに加えて、時折町中ですれ違ったときに、一馬の視線の熱さを感じたことがある。
(あの剣術の達人は、私に気がある)
そのため、ひょっとしたら一馬が何らかの形で自分に接触してくるかもしれない、という予感はずっと抱いていた。
若い藩士たちから、雪はしばしばそんな目で見られることがあった。竹内家と家格が同じか、それ以上の家の子息から、人を介して付文を渡されたこともある。
だが、本人から直接、恋文を渡されるのは初めてだった。しかも、一馬は現米給八石取りの家柄であり、竹内家とは家格が合わない。雪は、一馬の勇気には感服した。
(さすがは剣術使い。悪い気はしない。けど……)
雪は、舞踊の稽古へ行くために、再び歩き出した。




