(8)藩主左京亮の思案
左京亮は自室で、琵琶湖で獲れた葦登の素揚げを肴に、ひとり手酌でちびちびと盃を傾けていた。十九歳ではあるが、父から家督を受け継いで藩主となってからもう十七年が経過していて、年齢以上に落ち着きと思慮深さを備えていた。
「近藤様は肝臓も腎臓もだいぶお弱りのご様子で、この先、あまり長くはないかと……おっと、口がすべりました。これはあくまでもそれがしの不確かな診立てに過ぎません。ひらにご容赦を」
重蔵が風邪を引き、その病床を見舞った際、藩医を外に呼び出して重蔵の病状を訊ねたが、左京亮はそのとき藩医が言ったことを思い出していた。
(……微妙なところだ)
もし公儀から身柄を預かった重蔵がいくばくもなく他界した場合、大溝藩がどういう責めを負うことになるか、左京亮なりに計算していた。
(すでに近藤先生は改易されており、正式には旗本ではない。だが、公儀がわざわざ我が藩へその身柄を預けたというのは、先生を相当な大物と見ている証拠だ。その大物をぞんざいに扱ったとでも言いがかりをつけられないとも限らない)
もちろん、大溝藩では、重蔵をぞんざいに扱ってなどいない。獄舎に幽閉しているのは公儀からの指示であるためであり、それ以外のこと、例えば食事は左京亮と同じものを供しており、しかも定番士数名を獄舎に常駐させて重蔵の身の回りの世話をさせ、藩医も必要ならばすぐに駆けつけられるように体制を組んでいる。
(そんなことを申し開きしても、いっさい酌量されないだろう。我が藩へ幽閉後、先生がまもなく身まかったという事実だけがすべてであり、もし公儀が悪意をもってそのことを追及してきた場合、大溝二万石など塵芥のように吹き飛んでしまう)
杞憂ではない。これまでどれだけの藩が難癖に近い理由で取り潰しの憂き目に遭ってきたことか。左京亮はそういう事例を数多く知っていた。
(……やはり、打ち手はあれしかない)
皿の肴がなくなった。もう酒もだいぶ過ごした。そろそろ一人呑みをお開きにするか、と左京亮は立ち上がった。




