第45話 氷の王弟殿下から、求婚されました
温室には、最初の晩餐会と同じように、小さなランタンだけが灯されていた。
大舞踏会の夜のような、何百もの視線はない。
拍手も、証言者も、王家の紋章もない。
月の見える席に、湯気の立つ紅茶が二つ置かれているだけだった。
「ここでなければ、伝えられないと思った」
クラウス殿下は、少し緊張した面持ちで私を椅子へ導いた。
初めてこの温室へいらした頃の殿下なら、決して見せなかった顔だった。
「リリアン。以前、私は君を愛していると伝えた」
「はい」
「返事を急がせないと言ったが、今日、改めて願いたい」
「領地にいるフォンドール伯爵へは、まだ何も申し入れていない。王家から先に話を通せば、君が断りにくくなるからだ。まず、君自身の意思を聞きたい」
殿下は私の前で、静かに片膝をついた。
王弟殿下が、誰も見ていない温室の石床へ膝をつく。
差し出された手の上には、月の光を閉じ込めたような青い石の指輪があった。
「君の声に救われた。それは事実だ」
殿下は私を真っ直ぐに見上げた。
「だが、私が愛したのは声だけではない。傷ついた者のために、何度でも席を用意する君だ。歌えない夜にも食卓を整え、自分を傷つけた者にさえ、真実を話す場所を残した君だ」
胸の奥が、温かなもので満たされていく。
「私は、君に王弟妃の形へ自分を削ってほしくない。月夜の晩餐会を閉じてほしくもない。私の隣に立つために、君が君でなくなることは望まない」
「殿下……」
「私の隣に立ってほしい。だが、君の席も守り続けてほしい。リリアン・フォンドール」
殿下は一度、息を吸った。
「私と結婚してくれるだろうか」
以前の私は、愛されることが怖かった。
いつか声を失えば、見捨てられるのではないか。
王弟殿下の隣にふさわしくないと笑われるのではないか。
今も、恐れがすべて消えたわけではない。
けれど私はもう、怖いという理由だけで、自分が欲しいものから逃げたくなかった。
「私も、殿下を愛しています」
声は震えた。
それでも、誰かのためではなく、自分の気持ちを伝えるために言えた。
「どうか、私をあなたの隣に立たせてください。ですが時々は、殿下にもこちらの席へ来ていただきます」
クラウス殿下の目元が、柔らかくほどけた。
「毎晩でも来よう」
「それでは、王宮のお仕事が滞ってしまいます」
二人で笑った。
私は差し出された指輪を受け取り、自分の左手を殿下へ預けた。
指輪は、驚くほど自然に指へ馴染んだ。
「はい。お受けいたします」
クラウス殿下は立ち上がり、私の頬へそっと手を触れた。
拒む時間も、選ぶ時間も残して待っている。
私は自分から目を閉じ、少しだけ顔を上げた。
重なった唇は、氷の王弟という名からは想像もできないほど温かかった。
月明かりの下で交わしたのは、誰かに選ばれるための誓いではない。
互いに互いを選び、それぞれの席を守りながら隣を歩くための約束だった。




