第42話 この身体で生きてきた、私の声です
大広間が静まり返った。
私は国王陛下へ向き直り、深く一礼した。
「歌う前に、皆様へお願いがございます」
「申してみよ」
落ち着いた声が、高座から返ってくる。
「私の歌を聞きたくない方には、退席する自由をお認めください。また、歌を聞いた後であっても、証言や拍手を強いることはございません。その場に残るか、何を語るかは、すべてご本人に選んでいただきたいのです」
ヴィクトリア夫人の眉が、わずかに寄った。
私が歌で全員を従わせるつもりなら、聞かない自由など認めるはずがない。
国王陛下は審理長と短く言葉を交わし、頷いた。
「認めよう。扉を開けよ。退出を妨げてはならぬ」
大広間の扉が左右へ開かれた。
数人の貴族が、逃げるように出ていく。
ヴィクトリア派の中にも、残る者と去る者がいた。
私は、その背中を止めなかった。
聞かないという選択も、その人のものだ。
残った人々へ向き直る。
「今夜の歌は、私を美しいと認めていただくためのものではありません」
震えそうになる声を、ゆっくりと息へ乗せた。
「食べることを恥じた方。笑う声を小さくした方。鏡を見るのが怖くなった方。誰かに選ばれるために、ご自分を削ってきた方」
マリアベル様が、胸元で両手を握っている。
「どうか一度だけ、ご自分のために聞いてください」
私は目を閉じた。
最初の音は、少し掠れた。
完璧ではない。
けれど、逃げずにもう一度息を吸う。
二つ目の音が、高い天井へ上がった。
歌ったのは、誰かの望む形になるため、置き去りにしてきた自分を迎えに行く歌だった。
幼い日に好きだった色。
空腹なのに、食べないふりをした菓子。
笑われる前は、好きだった自分の笑い声。
天響の声が、淡い光のように広間へ満ちていく。
命令はしない。
ただ、一人一人が押し殺してきた記憶の扉を、そっと叩く。
扇で口元を隠していた令嬢が、自分の頬を濡らす涙に気づいた。
年老いた伯爵が、若い頃に画家を目指したかったと呟いた。
騎士の一人が、戦死した友の名を初めて声にした。
何も感じまいと腕を組んだままの者もいる。
途中で耐えられず、扉から出ていく者もいる。
それでよい。
私の歌は、正しい答えを押しつけるためのものではない。
歌の終わりが近づいた時、私はヴィクトリア夫人を見た。
夫人は、若い日の肖像画と同じように口を開きかけていた。
ほんの一瞬、泣きそうな少女の顔になる。
けれど次の瞬間には扇を強く閉じ、その記憶を押し殺すように顎を上げた。
思い出しても、選ぶのは本人だ。
夫人は、変わらないことを選んだ。
最後の音が消えた。
広間には、長い沈黙が残った。
私は結果を求めず、静かに頭を下げた。
最初に手を叩いたのは、マリアベル様だった。
細い両手を赤くしながら、泣き笑いで拍手している。
アイリス様とカミラ様が続き、やがて大広間を揺らすほどの音になった。
その拍手の中を、場違いなほど大きな声が切り裂いた。
「リリアン!」
人を押し分けて前へ出てきたのは、顔を紅潮させたエドガー様だった。




