第33話 歌えない私に、王弟殿下は歌を求めません
翌朝、私は月夜の晩餐会をしばらく休むと書いた手紙を、机の上に並べていた。
昨夜、皆様の前で声を失った自分を思い出すだけで、胸が締めつけられる。
歌を取り立てに来たのではないと言ってくださったアイリス様にさえ、私は何も返せなかった。
これ以上、優しい方たちの前で醜態を晒すくらいなら、温室を閉じてしまった方がいい。
そう思い、最初の封筒へ手を伸ばした時だった。
「馬鹿なことをする前に、診察を受けろ」
遠慮のない声と共に、ユリウス様が部屋へ入ってきた。
私の返事も待たず、喉元に冷たい測定石を当て、眉間に深い皺を寄せる。
「沈黙香の成分は、もう残っていない。喉にも、声を作る魔力の通り道にも傷はない」
「それなら、どうして……」
「香は、ないものを作り出す毒ではない。君の中に昔からあった恐れを、手に負えないほど大きくしただけだ」
声だけを求められ、身体を笑われてきた恐れ。
愛されているのは自分ではなく、珍しい力だけなのではないかという疑い。
「治す魔法は、ないのですか」
「外から押しつけられた術式なら剥がせる。だが、君自身の感情を私の都合で書き換えれば、それこそ洗脳だ」
ユリウス様は机の上の手紙を一枚取り、呆れたように鼻を鳴らした。
「歌えないから晩餐会を閉じる? 君は自分で、あの場所を歌の見世物に格下げするつもりか」
痛いところを突かれ、私は何も言えなかった。
ユリウス様と入れ替わるように、昼過ぎにはクラウス殿下が訪れた。
手には王宮の書類ではなく、布に包まれた小さな鍋を持っている。
「厨房を借りる」
それだけ言うと、殿下は私を屋敷の厨房へ連れていった。
鍋の中身は、鶏肉と根菜を柔らかく煮たスープだった。
「これは……殿下がお作りに?」
「王宮料理長の指示を受けた。二度、鍋底を焦がしかけたが」
氷の王弟と恐れられる方が、真剣な顔で不格好にパンを切っている。
以前、殿下がこの厨房から帰ってくださらなかった夜を思い出した。
あの時は、私が夜食を用意した。
今日は殿下が、私のために温かな食事を運んでくださったのだ。
「歌わなくてよい。話したくなければ、話さなくてもよい」
向かいへ腰を下ろした殿下は、自分の皿にも同じスープをよそった。
「今日は、君と食事をしに来た」
湯気の向こうにある青い瞳を、私は真っ直ぐに見られなかった。
「……もし、私の声が二度と戻らなかったら」
聞いてはいけないと思っていた言葉が、こぼれる。
「殿下は、それでもここへ来てくださいますか」
クラウス殿下は、すぐには答えなかった。
私が恐れているからと、耳触りのよい言葉だけを差し出す方ではない。
「最初に足を止めたのは、君の声だった」
胸が小さく痛んだ。
「だが、もう一度ここへ来たのは、君が私に歌を売ろうとせず、疲れているなら座れと椅子を引いたからだ。後援を決めたのは、君が自分を傷つけた者まで救おうとしたからではない。君が、傷ついた者の席を守ろうとしたからだ」
殿下は、私の前に温かなスープを置いた。
「声が戻らなくても、私は来る。君が温室を閉じても、扉の前で待つ」
胸の奥で固まっていたものが、ほんの少しだけ溶けた。
私はスプーンを取り、スープを一口飲んだ。
塩は少し足りず、根菜の大きさも揃っていない。
それでも、今まで食べたどんな料理より、温かかった。
食事を終え、殿下と共に温室へ向かうと、閉ざした扉の向こうにいくつもの人影が見えた。
マリアベル様、アイリス様、カミラ様。
そして、少し離れたところにはビアンカ様も立っていた。
誰も帰らず、私が扉を開けるのを待っていた。




