第32話 「声だけは美しい」と言われて、私は歌えなくなりました
沈黙香の混じった手紙は、すべてユリウス様が封印した。
部屋の布類は取り替えられ、机も清められ、私の身体に残っていた魔香の成分も、その日のうちに除かれた。
けれど翌朝になっても、声は戻らなかった。
普通に話すことはできる。
喉に痛みもない。
歌おうとした時だけ、息が胸の内側で固まり、音にならないのだ。
『声を失えば、あなたに何が残るのかしら』
ヴィクトリア夫人の囁きが、何度も蘇る。
月夜の晩餐会を始めてから、多くの人が私を見てくれるようになった。
王弟殿下も、騎士団長も、宮廷魔導師も、商会長も。
けれど、もし私に天響の声がなかったなら。
ただ、社交界の基準から外れたふくよかな令嬢だったなら、誰かが私の隣に立ってくれただろうか。
考えてはいけないと思うほど、疑いは胸の内で膨らんでいった。
その夜は、予定していた月夜の晩餐会の日だった。
中止にしようかと何度も迷った。
けれど、歌えないからという理由で食卓まで閉ざせば、それこそ私自身が、この場には歌しか価値がないと認めることになってしまう。
私はいつも通り、温室に灯りをともした。
緊張しやすい方には端の席を。
一人で月を見たい方には、窓辺の椅子を。
食欲が戻り始めたマリアベル様には、香草を控えた鶏肉の煮込みを用意した。
皆様は何も聞かず、いつものように食べ、話し、笑ってくれた。
歌がなくても、温室には温かな時間が流れている。
その事実に、私は少しだけ救われた。
けれど食事が終わり、いつもなら私が一曲だけ歌う時間になると、自然に会話が途切れた。
誰も催促などしていない。
マリアベル様も、アイリス様も、心配そうに私を見守っているだけだ。
それなのに私は、その沈黙を期待だと思い込んだ。
歌わなければ。
この人たちを失望させてはいけない。
私から声を取ったら、何も残らないのだから。
「皆様。今夜も、最後に一曲……」
私は立ち上がり、胸の前で両手を組んだ。
息を吸う。
いつもなら、温室のガラスを柔らかく震わせる最初の音が生まれるはずだった。
けれど、出ない。
もう一度、深く息を吸った。
喉が閉じ、胸が苦しくなり、掠れた音が醜く途切れた。
「リリアン様、もういいのです!」
マリアベル様が椅子を蹴るように立ち上がった。
その優しい声さえ、今の私には、歌えない私への哀れみに聞こえてしまった。
「ごめん、なさい……」
誰も責めていないのに、謝罪がこぼれた。
「ごめんなさい。私、せめて歌わなければいけないのに……」
「違います。私たちは歌を取り立てに来たのではありません」
アイリス様が首を振る。
分かっている。
皆様がそんな人ではないことくらい、本当は分かっている。
けれど、沈黙香によって大きくされた恐れは、優しさを受け取る心まで曇らせていた。
私は自分の喉を押さえ、その場に座り込んだ。
歌えない。
世界で一番美しいと言われた声が、どこにもない。
「……もう、歌えません」
口にした瞬間、温室の月明かりが、ひどく遠く感じられた。




