第31話 白い花束は、囮でした
「誰も触れるな」
白い花束を見た瞬間、クラウス殿下の護衛として残っていた騎士が、使用人たちを遠ざけた。
ビアンカ様が危険を冒して知らせてくれた、沈黙香。
見た目は、ただの白い花束。
あまりにも聞いていた通りだった。
知らせを受けて駆けつけたユリウス様は、花束を透明な魔力膜で包み、花弁を一枚ずつ調べた。
香りを抽出し、銀色の試薬を垂らし、何度も眉をひそめる。
「……何もない」
「何もない、とは?」
「ただの白百合だ。香りは強いが、沈黙香の成分も、精神へ干渉する術式も検出されない」
部屋の空気が、別の意味で張り詰めた。
紋章を真似たカードまで添え、わざわざ疑われる形で届けた無害な花束。
「こちらへ目を向けさせるための、囮か」
クラウス殿下が低く呟いた。
ビアンカ様は計画を聞いた時、廊下で物音を立て、ヴィクトリア夫人に気づかれかけたと言っていた。
誰かが計画を漏らすと疑い、夫人は方法を変えたのだろう。
分かりやすい花束を先に届ければ、私たちの目も、魔導師の検査も、すべてそちらへ向く。
その言葉に、私は自分の机を振り返った。
そこには、この数日で届いた手紙が山のように積まれていた。
魔性の歌姫という噂が広がってから、温かな励ましと同じくらい、差出人のない手紙も増えていた。
『姿を見せず、幕の後ろで歌えばよろしいのに』
『声だけは美しいのですから、余計なことを言わず歌だけ差し出しなさい』
『殿下方が愛しているのは、あなたではなく声でしょう』
読むたびに傷ついた。
それでも、中には助けを求める令嬢からの手紙が紛れているかもしれない。そう思い、私は一通ずつ自分で開いていた。
「手紙を調べてください」
私の声に、ユリウス様が振り返る。
騎士たちが窓を開け、手袋をしたまま手紙を床へ広げた。
最初の数通には何もなかった。
けれど、七通目の封蝋に試薬が触れた瞬間、銀色だった液体が濁った紫へ変わった。
「これだ」
ユリウス様の顔から、すべての表情が消えた。
さらに調べると、同じ成分は一通だけではなかった。
薄く香りを染み込ませた紙。花の形に押された封蝋。指先に残るほど細かな白い粉。
一度嗅いだだけで倒れるような毒ではない。
毎日少しずつ触れ、読み、その言葉を心に刻むたびに、もともと胸の内にある自己否定を大きくしていく。
「白い花束を警戒させている間に、君自身の手で毒の言葉を読ませたわけか」
ユリウス様は奥歯を噛みしめた。
「沈黙香は喉を壊さない。心と魔力の結びつきを鈍らせる。だから、通常の毒見では見つからない」
私は急いで手を洗い、治療用の魔法を受けた。
けれど、紙に書かれていた言葉までは洗い流せない。
――声だけは美しい。
――姿を隠せ。
――愛されているのは、あなたではなく声だ。
胸の奥で、何度も同じ言葉が響いた。
「リリアン」
クラウス殿下が私の肩へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
触れてよいかと、目で尋ねてくださっている。
私は頷いた。
殿下の手が、そっと肩に置かれる。
温かいはずなのに、心のどこかで声がした。
この方が求めているのも、本当は歌だけではないのか、と。
そんな自分が恐ろしくて、私は確かめるように小さく鼻歌を口ずさもうとした。
けれど。
喉からこぼれたのは、掠れた息だけだった。




