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第3話 氷の王弟殿下が、なぜか帰ってくれません

深夜の薄暗い厨房に、場違いなほど洗練された軍服姿の青年が立っている。


ルミナリア王国の頂点に立つ王族の一人、クラウス・レオンハルト殿下。

彼がなぜ、こんな使用人しか出入りしないような場所にいるのか。私は混乱のあまり、鍋のおたまを握りしめたまま硬直してしまった。


「……殿下、あの、これは……」


みすぼらしい寝衣姿で、しかも子供を膝に乗せて子守唄を歌っていたところを見られてしまったのだ。穴があったら入りたいとはまさにこのことだった。


しかし、クラウス殿下は私の狼狽など気にする様子もなく、静かな足取りで厨房の中へと足を踏み入れた。

その冷徹なはずの青い瞳は、まるで見たこともない珍しい宝石を見つけたかのように、真っ直ぐに私を射抜いていた。


「今の歌は、君が歌っていたのか」

「……はい」

「不思議な声だ。ただ聞いているだけで、ひどく……そう、心が静かになる。魔法の類かと思ったが、魔力配分は感じられなかった」


殿下は眠るマリーの寝顔を一瞥し、ふう、と小さく息を吐いた。


「あの夜会で、君は一言も発さずに立ち去った。だが、これほど美しい声を持っているなら、なぜ隠していた? 君が一度でも人前で歌えば、あの愚かな嘲笑など一瞬で消え去っただろうに」


その言葉に、私の胸の奥で、古傷がチクリと痛んだ。

美しい声。そう言ってくださるのはありがたいけれど、私にとって「人前で歌うこと」は、何よりも恐ろしい行為だった。


「……お褒めいただき、光栄です。ですが殿下、私は人前では歌いません」

「なぜだ」

「私の歌は、誰かを楽しませたり、社交界で評価を得たりするためのものではないからです」


私はゆっくりとマリーを抱え直し、目を伏せた。

思い出すのは、まだ幼かった頃の記憶。純粋に歌うことが好きで、家族の誕生日の茶会で、得意げに歌を披露した日のことだ。


『まあ、見てごらんなさい。太った小鳥が一生懸命さえずっているわ』

『醜い身体を揺らして、まるで喜劇ね。カナリアにでもなったつもりかしら』


親戚の大人たちが投げかけた、冷ややかな嘲笑。

扇の陰から向けられた、蔑むような視線。


私の歌声がどれほど響こうとも、彼らの目に入るのは「太った滑稽な少女」という事実だけだった。歌えば歌うほど、私はただの見世物になり、自らの尊厳が削られていくのを感じたのだ。


「幼い頃、親族の前で歌ったことがあります。その時、皆が私を『太った小鳥』と笑いました。……声だけを褒められても、結局、この身体は笑いの種にしかならないのです」


自嘲気味に告げた私の言葉に、厨房に重い沈黙が落ちた。

きっと殿下も、呆れて帰られるだろう。こんな卑屈な令嬢に関わっていても、何の利益もないのだから。


しかし、予想に反して、クラウス殿下から返ってきたのは深い嘆息だった。


「……愚かだな」

「え……?」

「君の歌を聴きながら身体を笑うなど、耳と目の両方が腐っているとしか思えん。そんな連中の言葉を、君は今まで信じて生きてきたのか」


殿下の声には、静かだけれど、確かな怒りが滲んでいた。

それは私に対してではなく、かつて私を笑った者たちへ向けられた怒りだった。


人の痛みに鈍感で、自分の価値を低く見積もることには慣れていたはずなのに。彼が私のために怒ってくれたことが、少しだけ嬉しかった。


「あの……殿下」


ふと、私は気まずい空気を変えようと口を開いた。


「どうして、まだお帰りにならないのですか? 忘れ物でしたら、そちらの扇ですよね。わざわざ届けていただいて……」

「あ……いや」


クラウス殿下は、手元の扇を見て、微かに気まずそうに視線を逸らした。

いつも完璧な氷の王弟殿下らしからぬその反応に、私は思わず首を傾げる。そして、鍋から漂ってくる香りに気がついた。


「もしかして、お腹が空いていらっしゃいますか?」

「……馬鹿な。私はただ、君の声に驚いて……」

「夜会では、ほとんどお食事を召し上がっていませんでしたよね。よろしければ、少し温かいものでもいかがですか?」


私はマリーを傍らの長椅子にそっと寝かせ、毛布をかけると、再びコンロの前に立った。

社交界の基準からすれば、身分の高い殿方に厨房で簡単な夜食を振る舞うなど、あってはならない無作法だ。けれど、ここは私の居場所だった。


鍋で少しだけ余っていた野菜の端切れとベーコンを細かく刻み、スープを温め直す。そこに固くなったパンを浸せば、質素だけれど身体の芯から温まる夜食の完成だ。


私は木製の丸椅子を差し出し、殿下を促した。


「本当に、粗末なものですが」

「……いや、いただく」


クラウス殿下は軍服の裾を翻し、小さな丸椅子に腰を下ろした。その姿があまりにも不釣り合いで、私は思わずふふっと笑いそうになるのを堪えた。


静かな厨房に、スプーンが器に触れる微かな音だけが響く。

殿下は黙々とスープを口に運び、やがて小さく息をついた。


「温かいな」

「はい。食事は、冷えた心を温めてくれますから」


彼が背負っている重圧や疲労の正体を、私は知らない。

けれど、この小さな食卓の前にいる間だけは、少しでも安らぎを感じてほしかった。


やがてスープを飲み終えた殿下は、静かに立ち上がった。

本来の威厳ある氷の王弟の顔に戻った彼は、厨房の出口へと向かい、最後に一度だけ振り返って私を見つめた。


「君の声を隠すかどうかは君が決めろ。だが、君を笑った者の判断を真実にするな」


その言葉だけを残して、漆黒の軍服は夜の闇の中へと消えていった。

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