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第2話 泣かない令嬢は、厨房で世界一美しい歌を歌う

氷の王弟殿下の馬車で屋敷まで送り届けられた私は、自室に戻るなり、侍女の手を借りてきつく締め付けられていたコルセットを外した。


深い安堵の溜め息とともに、本来のふくよかな身体が解放される。

豪奢なドレスを脱ぎ捨て、着慣れたゆったりとした寝衣に着替えると、ようやく自分が日常に帰ってきたのだと実感できた。


部屋に一人きりになると、静寂とともに先ほどの夜会の光景が蘇ってきた。


エドガー様の冷たい視線。

私を豚だと嘲笑った貴族たちの声。

社交界という華やかな世界から、たった今、私は完全に切り捨てられたのだ。


けれど、不思議と涙は出なかった。

胸の奥が冷たく重いのは確かだけれど、泣き喚いて悲しむ気にはなれなかったのだ。私を嫌いになった人のために流す涙は、なんだか勿体ないような気がして。


「……少し、冷えてしまったわね」


私は独り言を呟き、部屋を抜け出した。

向かった先は、屋敷の1階にある薄暗い厨房だ。


私にとって、厨房は特別な場所だった。

社交界の厳しい基準や、誰かの評価に怯える必要のない、唯一の居場所。温かい火と、美味しそうな匂い。食事はいつだって、人の心を回復させ、安心を与えてくれる魔法だ。


静まり返った厨房に入り、ランプに火を灯す。

冷えた身体と心を温めるために、はちみつを入れたホットミルクでも作ろう。そう思い、小鍋を火にかけようとした時だった。


「……ひっ、うぅ……っ」


暗がりから、微かな啜り泣く声が聞こえた。

驚いてランプの灯りを向けると、小麦粉の袋が積まれた陰に、小さな影がうずくまっていた。


「マリー? どうしたの、こんな夜更けに」


そこにいたのは、厨房で働く使用人の娘、7歳になるマリーだった。

彼女は私の姿を見ると、びくっと肩を揺らし、慌てて涙を拭おうとした。


「お、お嬢様……! ごめんなさい、私、お皿を……お母様が大事にしていたお皿を、割ってしまって……」


マリーの足元には、欠けてしまった素焼きの皿の破片が落ちていた。

どうやら、夜中にこっそりおやつを食べようとして落としてしまったらしい。母親に怒られる恐怖と、大事なものを壊してしまった自己嫌悪で、小さな身体を震わせている。


夜会で嘲笑われた時の、あの冷たい孤独。

それを今、この小さな子供も感じているのだと思うと、私はたまらなく愛おしい気持ちになった。


「怪我はない? 大丈夫よ、お皿はまた新しいものを買えばいいのだから」


私はゆっくりとしゃがみ込み、怯えるマリーをそっと抱きしめた。

私の丸くふくよかな腕と柔らかな胸は、泣いている子供を包み込むのにはちょうどいい。マリーは私の温もりに触れた瞬間、堪えきれなくなったように私の寝衣をぎゅっと握りしめ、ふんわあ、と声を上げて泣き始めた。


「よしよし。怖かったわね。悲しかったわね」


私はマリーの背中を優しく一定のリズムで叩きながら、小鍋にかけていたミルクにはちみつをたっぷりと溶かした。


「さあ、これを飲んで。温かいものを飲めば、少しだけ心が落ち着くから」


涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔のまま、マリーは差し出されたマグカップを両手で受け取った。

こくり、と一口飲むと、甘く温かいミルクにふっと表情が緩む。


「……おいしい」

「ふふ、よかった。さあ、もう泣かないで。私が魔法の歌を歌ってあげるから」


私はマリーを膝の上に乗せ、彼女の柔らかい髪を撫でながら、静かに目を閉じた。

誰かを慰めたい。今日一日、傷ついて疲れてしまった心を、どうか安らかに休ませてあげたい。


その純粋な願いだけを込めて、私は唇を開いた。


――紡ぎ出されるのは、子守唄。


私の口からこぼれ落ちた声は、夜の厨房の空気を震わせ、優しく、柔らかく響き渡った。

それは技巧を凝らしたオペラでも、殿方を楽しませるための愛らしい調べでもない。ただ、聞いた者の心の奥底にある「安心」を呼び起こす、波紋のような響き。


私の声が空気に溶けるにつれて、マリーの小さな身体から強張りが抜けていく。

悲しみも、恐怖も、自己嫌悪も、温かい毛布に包まれるように溶けていき、やがて彼女の規則正しい寝息が聞こえ始めた。


「……おやすみなさい、マリー。明日はきっと、いい日になるわ」


すっかり眠りに落ちたマリーの額にキスをして、そっと立ち上がろうとした時。


「――驚いたな」


厨房の入り口から、不意に低い声が響いた。

びくりと肩を震わせて振り返ると、そこには、いるはずのない人物が立っていた。


「ク、クラウス殿下……!? なぜ、ここに……」


漆黒の軍服に身を包んだ氷の王弟殿下は、厨房の入り口の壁に寄りかかるようにして立っていた。

その手には、私が夜会の会場に忘れてきたはずの、小さな扇が握られている。わざわざ、忘れ物を届けるためだけに引き返してきてくださったのだろうか。


しかし、クラウス殿下の視線は扇ではなく、私に真っ直ぐに向けられていた。

いつもは冷徹なはずの青い瞳が、今は信じられないものを見るように、微かに揺らいでいる。


「邪魔をするつもりはなかった。ただ……あまりにも美しい声だったから、動けなくなってしまった」


彼は静かにそう言うと、眠るマリーと、みすぼらしい寝衣姿の私を交互に見つめ、信じられないというように低く呟いた。


「この声を、社交界は笑ったのか」

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