第1話 「太った令嬢はいらない」と婚約破棄されました
シャンデリアが眩い光を投げかける王宮の大広間には、甘い香水と微かな優越感が入り混じった空気が漂っていた。
ルミナリア王国の社交界において、美しさの基準は絶対だ。
令嬢たるもの、折れそうなほど細く、透き通るほど白くあるべき。
大口を開けて笑うなど言語道断であり、夜会に用意された豪奢な食事には、決して手をつけてはならない。
女は選ばれるために、ひたすら自分を削り、静かに微笑んでいなければならないのだ。
そんな息の詰まるような基準に支配されたこの場所で、私はひっそりと壁際に立っていた。
私の名前は、リリアン・フォンドール。
この華やかな夜会には、あまりにも不釣り合いな体型をした伯爵令嬢だ。
きつく締めたコルセットの隙間からは柔らかな肉がはみ出し、頬は丸くふくらみを帯びている。
誰もが「醜い」と嘲笑う豊かな曲線を持った私は、なるべく人の視界に入らないよう、柱の影で息を潜めていた。
本来であれば、エスコート役である婚約者の隣で微笑んでいるはずだった。
しかし、私の婚約者である侯爵令息のエドガー様は、夜会が始まって早々に私を置き去りにし、今は広間の中央で別の令嬢たちと楽しげに談笑している。
彼が私を見ようとしない理由は分かっている。
社交界の視線を何よりも気にする彼にとって、基準から外れたふくよかな私を隣に立たせることは、耐え難い恥なのだ。
それでも、私は彼を支えようと努めてきた。
彼が好む刺繍を施し、彼が少しでも心地よく過ごせるように気を配ってきた。いつか、私の心を見てくれる日が来ると信じて。
だが、その淡い期待は、次の瞬間に残酷に打ち砕かれることとなった。
「リリアン・フォンドール! 前に出ろ!」
突然、オーケストラの優雅な演奏を遮るように、エドガー様の鋭い声が広間に響き渡った。
音楽が止まり、数百人の貴族たちの視線が一斉に私へと突き刺さる。
私は戸惑いながらも、ドレスの裾を握りしめ、ゆっくりと彼の元へと歩み出た。
エドガー様の隣には、見知らぬ令嬢が立っていた。
男爵令嬢のビアンカ様。彼女は私とは正反対の、小鳥のように細く儚げな体型をしており、どこか怯えたような瞳で私を見つめていた。
「エドガー様、私に何か……」
「お前との婚約は、今この瞬間をもって破棄する!」
冷ややかな宣告だった。
広間が水を打ったように静まり返る。私は自分の耳を疑い、足元が崩れ落ちていくような錯覚に陥った。
「こ、婚約破棄……? 理由をお聞かせ願えますか。私が何か、あなたに無礼を……」
「理由だと? そんなもの、自分の姿を鏡で見れば分かるだろう!」
エドガー様は、まるで汚いものでも見るかのように私を指差した。
「豚のように太った女など、私の隣にはいらない! 侯爵家の次期当主たる私の隣を歩く者は、それに相応しい美しさを持っていなければならないのだ!」
その言葉が引き金となった。
静まり返っていた広間から、ひそひそとした囁き声が漏れ始め、やがてそれは明確な嘲笑へと変わっていった。
「当然よね。あんな体型で夜会に来るなんて、恥知らずにもほどがあるわ」
「ドレスがはち切れそう。みっともない」
「エドガー様がずっと我慢されていたなんて、本当におかわいそうに」
「ふくよかな令嬢なんて、ただの出来損ないよ」
あちこちから投げつけられる言葉の刃が、私の心を無残に切り裂いていく。
息ができない。視界が滲む。
彼らにとって、私の献身も、優しさも、何も意味を持たなかった。
ただ身体が太っているという、その一点だけで、私の価値は地の底へと落とされるのだ。
周囲は、私が泣き崩れるのを待っていた。
哀れな姿を晒し、逃げ出すことを期待していた。
――でも、泣いてたまるか。
私は震える拳を強く握りしめ、背筋を真っ直ぐに伸ばした。
ここで涙を流せば、私の今まで生きてきた時間すらも、彼らの嘲笑によって否定されてしまう気がしたからだ。
私は大きく息を吸い込み、エドガー様を真っ直ぐに見据えて口を開いた。
「私を嫌いになったことは、仕方ありません」
震えそうになる声を必死に押さえつけ、はっきりと告げる。
「けれど、私の身体を笑ってよい理由にはなりません」
広間が再び静まり返った。
誰もが、捨てられた出来損ないの令嬢が反抗したことに驚き、息を呑んでいた。
エドガー様は一瞬あっけにとられた後、顔を真っ赤にして激昂した。
「ふ、ふざけるな! その見苦しい体で私に口答えをする気か! おい、誰かこの女を叩き出せ!」
彼がそう叫び、警備の騎士たちが動き出そうとした、その時だった。
「その通りだ」
広間の空気を一瞬にして凍らせるような、絶対零度の声が響き渡った。
人々が弾かれたように道を空ける。
そこを静かに歩み出てきたのは、夜の闇を溶かしたような漆黒の軍服に身を包んだ長身の青年だった。
彼が姿を現した瞬間、会場にいた全員が息を止め、深く頭を垂れた。
氷の王弟、クラウス・レオンハルト殿下。
国王陛下の実弟であり、国の政治を実質的に取り仕切る宰相格の御方。普段はこのような夜会の騒ぎなど、見向きもされないはずの彼が、なぜここに。
クラウス殿下は、凍りついたように立ち尽くすエドガー様と、彼に追従して笑っていた貴族たちを、冷徹な青い瞳で見下ろした。
「今夜もっとも醜かったのは、彼女の身体ではない。君たちの笑い声だ」
静かな、しかし確かな怒りを孕んだその言葉に、誰も反論することはできなかった。
エドガー様は青ざめ、口をパクパクと動かしているだけで、声すら出せないでいる。
クラウス殿下は彼らから視線を外すと、真っ直ぐに私の前へと歩み寄ってきた。
そして、驚きで身動きが取れない私の前に優雅に手を差し出した。
「行こう。君は軽く扱われていい人ではない」
その低い声には、先ほどの冷酷さとは打って変わった、微かな温もりが宿っていた。
私は導かれるようにその手を取った。彼の大きな手は、氷の王弟という異名に反して、とても温かかった。
私は、嘲笑と静寂に包まれた夜会から、彼に連れられて足を踏み出した。




