第28話 元婚約者様、私は変わっていません
王宮大舞踏会の開催が正式に発表されてからというもの、社交界の空気はかつてないほどにピリピリと張り詰めていた。
私たちが掲げる『月夜派』と、ヴィクトリア夫人を中心とする『ヴィクトリア派』。両者の対立はもはや隠しきれないものとなり、大舞踏会という最大の公の場で、どちらが真の「社交界の美」として認められるかの決戦の様相を呈している。
そんな中、私は月夜の晩餐会に参加する令嬢たちのために、大舞踏会で身に纏うドレスの装飾品や、晩餐会で出す新しい茶葉を見繕おうと、王都の商業区を訪れていた。
賑わう大通りから少し外れた、高級な服飾店が立ち並ぶ静かな路地を歩いていると、ふいに前方の石畳に長い影が伸びた。
「奇遇だな、リリアン。こんなところで君に会えるとは」
その甘ったるい、けれど中身の伴わない薄っぺらな声に、私は思わず足を止めた。
建物の陰から現れたのは、金糸の髪をきれいに撫でつけ、質の良い上着を身に纏ったエドガー・ラザフォード様だった。
偶然を装っているが、明らかに私の動向を調べ、待ち伏せしていたとしか思えないタイミングだ。あの王宮の夜会で、大勢の貴族たちの前で私に公開婚約破棄を突きつけて以来、こうして正面から言葉を交わすのは初めてのことだった。
「……エドガー様。ごきげんよう」
私は淑女としての最低限の礼を尽くし、それ以上は言葉を紡がずに通り過ぎようとした。
しかし、エドガー様はわざとらしく優しげな微笑みを浮かべ、私の行く手を塞ぐように立ち塞がった。
「待ってくれ、リリアン。そんなに警戒しなくてもいいだろう? 少し、君と話がしたくてね」
エドガー様の視線は、私の顔ではなく、まるで私の背後に透けて見える『王弟殿下』や『騎士団長』という権威の重さを値踏みしているように感じられた。
「最近の君の活躍は、私の耳にも届いているよ。最初は、孤立した令嬢たちを集めて傷の舐め合いのような茶会を開いていると聞いて笑っていたんだが……まさか、社交界を二分するほどの勢力を持つようになるとはね。それに、君のその不思議な歌声。王弟殿下や騎士団長を惹きつけるほどの力だとは、私も知らなかった」
彼はゆっくりと私に近づきながら、手放した骨董品が実は国宝級の価値を持っていると知って後悔している商人のような、浅ましい目をした。
「母上は君たちを目の敵にしているようだが、私は違う。王弟殿下たちは、君の珍しい力に興味を持っているだけだ。いずれ飽きられ、君は捨てられる。……だが、私は違う。君のその力を正しく導き、守ってやれるのは私だけだ。私が母上を上手く説得して、君をもう一度迎え入れてやろう」
彼はさも「自分が寛大に許してやる」とでも言いたげな態度で、私に手を差し出した。
「どうだろう、リリアン。過去の行き違いは水に流して、もう一度、私と手を取り合わないか?」
甘く囁かれる言葉。
かつての私なら、その手に縋り付いて、少しでも愛してもらおうと必死に笑いかけていたかもしれない。豚のように太っていると嘲笑われても、彼の隣に立たせてもらえるなら、どんな冷たい扱いでも耐えようと思っていた。
けれど。
今、目の前に立つ彼を見ても、私の胸の奥には何の感情も湧き上がってこなかった。
怒りも、悲しみも、未練すらも。ただ、底知れぬ呆れと、静かな諦観があるだけだ。
私は、伸ばされた彼の手を避けるように、スッと一歩だけ後ろへ下がった。
「……過去の行き違い、ですか」
「そうだ。私も少し、君の体型について言葉が過ぎたことは謝ろう。君が太っているから悪いのだと、あの時はそう思っていた。だが、君だって自分の立場をわきまえるべきだったんだ。……しかし、今の君は違う」
エドガー様は、空を切った自分の手を気まずそうに下ろし、自尊心を保つように口の端を歪めた。
「君は変わったな」
彼は、満足げに頷きながら私を評価した。
「以前のようにオドオドと怯えることもなくなり、ずいぶんと自信に満ちた顔をするようになった。後ろ盾を得て、ようやく貴族の令嬢らしい風格を身につけたようだ。あの見苦しかった令嬢が、ここまで成長するとは思わなかったよ」
上から目線の、何様のつもりかと言いたくなるような評価。
彼は私が、王弟殿下たちという強力な後ろ盾を得たから「変わった」のだと思い込んでいる。彼に見えているのは、私が持つようになった『価値』と『名声』という飾り付けだけだ。
私の本質など、最初から彼には見えていない。
私は、冷めきった瞳で彼を見つめ返した。
「いいえ。あなたが、私を一度も見ていなかっただけです」
「……なに?」
私の静かな、けれどはっきりとした拒絶の言葉に、エドガー様の顔から余裕の笑みが消えた。
「私は何も変わっていません。自分の体型を恥じ、傷つきながらも、誰かの心に寄り添いたいと願っていたあの頃から、何一つ。……あなたは、私という人間ではなく、ただ社交界からの見え方だけを気にして、私を隣から切り捨てたのです。そして今、私の価値が上がったから惜しくなっただけでしょう」
「リリアン、君は自分が何を言っているのか分かっているのか……!」
「ええ。ですから、私が今さらあなたの手に取られる理由など、どこにもないということです。失礼いたします」
私が踵を返そうとした瞬間、プライドを粉々に打ち砕かれたエドガー様が、顔を真っ赤にして逆上した。
「待て! 私をコケにする気か! 男たちの庇護がなければ生きていけない分際で、調子に乗るな……っ!」
彼が私の腕を強引に掴もうと、乱暴に手を伸ばしてきた。
思わず身構えた私の視界を、ふいに漆黒の軍服が遮った。
「その薄汚い手で、彼女に触れるな」
氷の刃のように冷酷で、絶対的な威圧感を放つ声。
いつの間に現れたのか、クラウス殿下が私の前に立ち塞がり、エドガー様の手首を容赦なく掴み上げていた。
「で、殿下……っ!?」
「身の程を知れ、ラザフォード。お前が彼女の価値を測るなど、百年早い」
クラウス殿下の青い瞳が、怯えるエドガー様を射抜く。
エドガー様は手首を振り払うことさえできず、青ざめたまま立ち尽くした。




